宮崎駿監督の作品を、僕が初めて見たのは、高校一年のときだった。
ナウシカとの出会いにさかのぼること、約一年半である。
作品は『天空の城ラピュタ』であった。
ヒロインのシータは、十二、三歳の少女である。シータは、高貴の血を引くお姫さまという設定だったが、農夫の娘として育てられたゆえに、あるいは、年齢が若すぎたためか、彼女の言動には、ナウシカのような輝きを見ることは出来なかった。
シータは、基本的に「女の子」であり、その魅力は限りなく中性的であった。したがって、シータの涙は、無垢な子供の涙であり、その裏に、思索の葛藤を感じることは難しい。
むろん、シータの個性とナウシカの個性とは、まったく別物であることを承知した上で、比較している。
ナウシカも、ある意味では無垢である。と、同時に、大人の一面を併せ持つ。そうした両面性を備えた上での「無垢」である。「無垢」とはどういうことか? 決して、「子供っぽい」ということと同義ではない。
例えば、トルメキアの侵攻を受け、父を殺され、生まれ育った谷を奪われたナウシカは、激情にかられ、多くの敵の兵士を手にかけた。そんな自身の暴挙に恐怖を抱き、取り乱したりもしたが、最後は自制する。
大国が、自前の論理で、理不尽な要求を突き付けてきた。その現状を冷静に分析し、正面から抗うことを諦めた決断は、小国の若き主としての最初の決断であり、人間ずれした大人の決断、正確には、的確な外交手腕に裏付けられた政治家の決断であった。
まったくもって不思議な話である。
彼女は、いつ、そんな外交手腕を身につけたのだろう?
しかも、あの若さで……。
ナウシカの魅力とは、そのような意味でも、奥深い。
そうかと思うと、例えば、師ユパの前での言動は、真っすぐで、純粋である。
「ユパさま!」
と、呼び掛けるナウシカの表情は、豊富な経験を積んだ目上の者への、理屈抜きの憧れと尊敬の念とで満ちていた。
それは、娘が父親に見せる無邪気な顔ともいえる。
これもまた、ナウシカの魅力の一つであろう。
この世のすべての人は、皆、大人と子供の一面を併せ持つ。大人だけの一面を持った人、あるいは子供だけの一面を持った人など存在しない。中年を過ぎた「大人」も、小学校に上がる前の「子供」も、皆、両面を持っている。異なるのは両面の比率だ。
このことを確認すれば、さらに別のナウシカの魅力がわかってくる。それは、前述の二つの魅力に基づく。つまり、ナウシカの人格が、どこかしら現実味を帯びている、ということである。
ナウシカを見て、ふと思ったりしたものだ。
「こんな女の子、探せばいるかもな」
本当にいるかどうかは別として……。
こうした発想は、ある種の親しみとなって、ナウシカの魅力の新たな部分を構成する。わざとらしいまでに無垢な『天空の城ラピュタ』のシータに欠ける魅力である。
大人と子供の両面を持った人格は、そのキャラクターに等身大という性質を付与する。そのことが、吉と出るか凶と出るかは、クリエイターの腕一つにかかっていると言って良い。
『機動戦士ガンダム』の主人公アムロ・レイは、等身大のアニメーション・キャラクターとして、順当な成功をおさめた。子ども向けエンターテイメントとして出発した『ガンダム』だが、その後、何年にもわたり、あれほど異様な人気を誇るきっかけとなったのは、『ガンダム』が、発表当時の高校生たちに強烈にアピールしたからであるといわれる。そのアピールの根源は、リアリズムであった。
中でも抜きん出ていたのは、人間の内面を鋭くえぐりだした心情描写のメスであった。その結果として、ロボットアニメとしては奇跡的に、反戦思想を盛り込むことにも、成功したのである。
では、アムロとナウシカとは、同質のキャラクターなのか?
二人は、等身大の面をもつという意味では、たしかに似ているかも知れない。しかし、二人の向いている方向は、あまりにも違いすぎる。
アムロは私小説風の少年である。アムロのあらゆるイベントに対する反応は、押し並べて、ごく普通の少年であった。一方、ナウシカは私小説風な少女ではない。ナウシカの思考や悩みは等身大ではない。向き合うべきイベントと、それへの反応とは、凡人離れしている。
ともに等身大という名のリアリズムを有しながら、この違いはどこから生じるのか?
それはキャラクターの持つ個性の違いである。もっと言えば「性格」の違いである。
ナウシカは、気高い。行動のほとんどは、気高さが動機になっている。時々見せる、思いやりや優しさも、この気高さからきているといってよい。
あるいは、責任感という言葉で置き換えてもいいだろう。むろん、その責任感は、そんじょそこらの責任感とはわけが違う。一国の王女としての責任感である。
この責任感が、自身に苛酷とも思える責務を負わしめる。こうした献身的姿勢がナウシカの魅力の一つとなっていることに、異論を挟む人はあるまい。
際どい魅力である。
一歩間違えれば、純粋子供向けエンターテイメントの烙印を押されるか、作者の倒錯的な趣味を疑われても仕方の無いところである。
それが、そうはならなかった理由は、先ほど指摘した。ナウシカの人格におけるリアリズムである。その辺りが、ぞんざいに創造されていたならば、ナウシカはアニメーション世界に氾濫するB級ヒロインで終わっていたであろう。
だからこそ、あの涙が大きな意味を持ってくるのである。
そんなナウシカが見せた涙だから、僕らは考えてしまうのである。あの涙の意味は何だったのだろうか、と……。
クシャナによって、ペジテへの同行を命じられたナウシカは、アスベルがトルメキア軍に仕掛けた空中戦に巻き込まれ、腐海の最中に不時着する。
そこで、蟲たちからアスベルの行方を知り、アスベルの救出に向かう。
無事、救出したと思いきや、メーヴェの翼が蟲の尾に弾き飛ばされ、ナウシカは気を失って、腐海の底に沈んだ。
気が付くと、ナウシカはアスベルに付き添われ、大木の切り株の上に寝かされていた。真っ先に目に入ってきた光景は、青い大木の数々が、はるか天井を支えている様子であった。天井のあちらこちらから、筋状の光が降り注いでいる。
足元に目を転じれば、青く澄んだ清水が、せせらぎを作っている。
「不思議なところ……」
と、ナウシカは呟く。
それは、たしかに、何とも幻想的な風景であった。
「驚くのは当たりまえさ。ぼくらは腐海の底にいるんだよ」
と、アスベルは云う。
やがて、ナウシカは、自分が防毒用のマスクをしていないことに気付く。
「ここの空気は澄んでいるんだよ」
と、アスベルは云った。
まさか腐海の底に、こんな清純な世界が広がっていようとは……。
枯れても水を通す大木の幹。
井戸の底と同じ砂――石になった木が砕けて降り積もっている。
大地の毒を取り込み、汚れた土をきれいな結晶に変え、自らは死んでいく。そんな腐海の悠久な営みが明らかにされた。
そして、ナウシカは地に伏す。
両目から溢れ出た大粒の涙は、誰にも見せなかった……。
「驚くのは当たりまえさ。ぼくらは腐海の底にいるんだよ」
果たして、アスベルの答えは、ナウシカの予想を大きく外れたものであったろうか?