十七の秋だった。
察するに、ほぼ同年での出逢いだったようである。
映像の中の彼女は、その仕草、表情、物言いのすべてが、鮮烈で、魅力的であった。
なんと自然な笑顔であったことだろう?
特有のほほ笑みは、誰にも真似できない。穏やかな微笑は、それまで、見たことがなかった。
イヤリングは、ちょっとしたお洒落のつもりか? その耳元のポイントが、さり気なく、男心を惹き付ける。
叶うことなら、じかに会って、話がしたい。
顔だけでなく、その心とも、一対一で、向き合ってみたい。
彼女が何を考え、何を思い、何を見ていたのか?
もっとも、そのほほ笑みが目の前に現われた途端、言いたいことの半分も言えなくなるだろうが……。
この出逢いは、フィクションと現実世界との境界を曖昧にさせた。
あれから、はや五年が経とうとしている。
今、改めて映画『風の谷のナウシカ』の物語を振り返ってみたとき、やはり、二の句が告げないというのが本当のところだ。
この五年間で、僕は、あの物語について、様々な分析を試みた。
ナウシカの並はずれた生命力が物語の中で果たす役割について、また、作者の巧みな伏線の張り方について。中には、ナウシカの振り撒いた無意識の媚態など、あまり人前では口に出来ないものもあるが、そうした研究を、すべてひっくるめて得られた結論だけを言えば、こうである。
ナウシカは、一つの頂点を極めた。
断言しよう。
この方向性での新たなるヒロインの創造は、ナウシカを最後に、出来の悪い二番煎じと成り果ててしまうに違いない。
今後も、ナウシカに似て、かつナウシカを越えるヒロインは、誕生しないだろう。
それくらい、ナウシカは空前絶後の強烈な個性であったと言って良い。
むろん、映画『風の谷のナウシカ』の秀逸な点は、ヒロインの完成度だけにあるのではない。
巨大産業文明崩壊後の一千年という時代設定と、その高度科学文明が遺した様々な精密機器に囲まれて生活する人々。そして、腐海という瘴気の森が演出する舞台。
まさに絶妙の取り合せだった。
風の谷における風や森、川、空の描写。飛行艇や風車、独特な日用品の数々。そして、腐海に生息する猛毒の植物、それを守る蟲たち。
そのどれを取っても、受け手の心に揺さぶりをかける。それらには、アニミズムにも似た、個々の魂の息吹が感じられる。
著名な画家の言葉に、次のようなものがある。
――画家は、人々の思想や心情は描かず、それを取り巻く事物や世界を描く。そうやって、目に見えないものの表現をも成し遂げる。
映画『風の谷のナウシカ』のアニメーションは、この絵画の正道を貫いた。
映画『風の谷のナウシカ』が、今日、なお、人々の心を引き付けて止まないわけを、いくつか述べてみた。
しかし、それらをいちいち分析・総合し、詳らかに解説してみせても、得られるものは僅かである。第一、そうした営為は、僕などよりも、アニメーションという媒体に通じた人々に任せたほうが、はるかに面白いものとなるに違いない。
ここでは、この物語の魅惑の根源について、迫ってみたいと思う。
映画『風の谷のナウシカ』が、今も僕を捉えて離さない訳である。
そのためには、ナウシカが見せた涙について、まず、触れなくてはならない。