――末期がん

 なのだそうである。
 慶彦(よしひこ)は、医者の説明を上の空できいていた。

 急に「末期がん」と云われても、実感はなかった。
 まるで他人事のような感覚――

 病院の2階の診察室の窓からは、薄紅色に染まった桜の満開がみてとれた。

 今年で39歳になる。
 大学を出たが定職に就けず、職場を転々とした。
 メーカーの営業マンに始まり、軽食屋の雇われ店主、中古ビデオ屋の販売員、会社ビルの清掃員、土方の真似事など、数え挙げるのも面倒である。

 安い賃金で何時間も働かされて――
 用が済んだら放り出され――
 そうやって、あちこちの職場をさまよった。

 挙げ句の果てに、
「厳しいところですね」
 と、医者は云う。
 今後の病状の見通しが「厳しい」というのだ。

 医者は男性であった。
 まだ若い――たぶん慶彦よりも若い。
 医者の仕事自体に、まだ慣れていない印象であった。

 ――どれくらい生きられるのか?

 という慶彦の問いに――
 医者は3秒ほどの沈黙を挟んで答えた。

「1年――ですかね」

(1年?)

 時間で示されれば、慄然とする。
 腸を内から冷たい指でさすられる感触――

(まだ40にもなってないというのに……)

 父も祖父も、がんで早死にした。
 たぶん、こういう運命だったのだろうと思った。

(それにしても……)

 患者の心中を察してか、
「あ、たぶん半年ということはないと思います」
 と、医者は付け足した。

 それが何の慰めにもならないということに、医者は気付かないようだった。

 医者は戸惑っていた。
 早く厄介払いしたい反面、心から同情している様子でもあった。

「わからないことがあれば、また来て下さい。わかりやすく説明しますから――」

 医者は壁の時計に一瞥をくれた。
 次の患者のことが気になっているらしい。

 追い立てられる心地で、慶彦は丸椅子を立った。

     *

 1階の待ち合いホールから表玄関の自動ドアを出て、タクシー乗り場へ向かう。

 敷地の塀ぎわは桜並木で彩られていた。
 薄紅色の花びらを巻き散らさんばかりに、咲き乱れている。

 正門へ続く石畳を歩いて大通りに出ると――
 何人もの高校生たちがバス停の方に歩いていた。

 すぐ近くに高校がある。
 そこから帰宅するところのようであった。

 時刻は午後1時を少し回ったところである。
 今日は始業式か何かなのであろう。

 桜並木の枝は、病院の塀の上から、ところどころに溢(こぼ)れ出ていた。
 その枝の下を、高校生たちは歩いていく。

 その集団に紛れて――
 慶彦はアスファルトの歩道を力なく進んだ。

 高校生たちの若々しさが眩しかった。
 とくに女子高生たちの笑顔が輝いてみえた。

 昨日までなら何とも思わなかったはずの少女たちの顔立ちが――
 薄紅色の光に照らされて、ほんのり白く、ふんわり浮き上がっていた。

 彼女たちの誰かを抱きしめ、その柔らかな頬をさすり、その膨らんだ胸に顔を埋(うず)めたいと、久々に思った。

 が、
(もう遅い)

 その資格が自分にないことを、慶彦は悟らずにはいられなかった。
(余命1年――では……な)

 少女たちの眩しい笑顔は、慶彦の鈍色の過去をあぶりだしもした。

 大学を出た次の年、慶彦は居酒屋で若い女と知り合った。
 その女をアパートに連れ込み、孕ませた。
 女は、まだ高校生であった。

 すぐに堕胎させ――
 その後、半年ほど付き合った。

 が――
 結局、別れることになった。

 別れ際に、女は、

 ――死んでやる!

 と叫び、深夜の繁華街に消えていった。

 以来、今日まで、会ったことはない。

 ずっと同じ街に住んでいて、向こうもそのはずであったが――
 顔を合わせることは一度もなかった。

 今となっては、生きているかどうかも知りようがない。

(そう云えば……)

 あのときに堕胎させた子供は――
 もし、生ませていれば――
 今頃、高校生くらいになっている。

(バチが当たったな)

 自嘲の言葉も、今となっては虚しく響く。

     *

 歩道を歩き、バス停に着くと、大勢の高校生たちが、バスの到着を待っていた。
 この分では、少なくとも2台はやりすごさないと、乗られそうにない。

 慶彦は、バス停の人だかりを避け、歩道脇の閉まったシャッターに寄りかかり、人だかりが薄まるのを待った。

 が、バスを待つ高校生たちは、どんどん増えていった。
 さらに病院帰りの老人たちも数を増す。

 待てば待つほどに、バス停付近の混雑は酷くなっていった。

(バカらしい)

 自分の一生を振り返っているような気分になった。

 慶彦は歩いて帰ることにした。

 と、そのとき――
 慶彦の目が見開かれた。

(奈津江(なつえ)か?)

 バス停前の人だかりから一人で外れていく少女の横顔が――
 昔、堕胎させた女の横顔に重なった。

(なぜ?)
 疑心が魅惑を誘った。

 少女は慶彦と同じ方角に歩いていくところであった。

 慶彦は迷わなかった。
 その小さな背中を追いかけた。

 慶彦は思い出していた。
 あの夜、奈津江の金切り声が慶彦の鼓膜に突き刺さったことを――

 その声は、喚いていた。

 ――あたし、また妊娠したかもよ!

 と――

 その告白で正気を取り戻してもよさそうなものであったが――
 あの夜は、そうはならなかった。

 それまでの口論で、慶彦はすっかり逆上していた。

 ――知るか、そんなの!

 ――なに、その云い方!

 ――避妊、ヘマしやがって!

 ――あんたが協力しないからよ!

 ――うるせえよ! オレには関係ねえだろ!

 その言葉が引き金となり――
 奈津江は夜の繁華街へと駆け出した。

(そうだ――)
 と思い出した。

 奈津江は、2人目の子供を身ごもっていたかもしれなかったのだ。

 それなのに――
 なぜ、あの夜の自分は、あんなことを云ってしまったのか。

 慶彦は後悔した。
 後悔していた当時の自分を思い出していた。

 そうなのである。
 奈津江は、この街のどこかで子供を産み、育てているかもしれない。

 そして、その子が――
 今、自分が追いかけている――あの少女かもしれなかった。

 そうでないのなら――
(あんなに似るわけがない)
 のである。

 いつしか――
 慶彦は自分を騙し始めていた。

(あれがオレと奈津江の娘に違いない)
 と――

 胸の鼓動が高鳴った。

 少女が人通りのない小路に入ったところで――
 慶彦は小さな背中との間合いを一気に詰めた。

 少女は驚き、振り返った。

「ちょっといいか?」

 男の声高な呼びかけに、少女は言葉を失った。
 黒い瞳が張り裂けんばかりに見開かれていた。

 それに、かまわず――
 慶彦は問い詰めた。

「あんた、名前は? 池上(いけがみ)っていうんじゃないのか?」
 奈津江の名字を口にした。

 が、少女は小刻みに首を振るばかりであった。
 何を問われたのかも、よくわかっていないようであった。

「あんた、池上っていうんだろ? そうだろ?」

 少女は、なおも言葉を失っていた。

「あんた、別れた女に、そっくりなんだよ。まるで親子みたいに――」

 少女は首を横に振り続ける。

 慶彦は必死に食い下がった。
「なあ、そうだろう?」

 ついに少女の腕を手に取った。

 が――
 つかんだ腕を振りほどき、少女は一目散で走り逃げた。

 結末は淡い予感を裏切った。
 慶彦はすっかり打ちのめされて、もはや少女を追いかけようとはしなかった。

     *

 それから数ヶ月がすぎ――
 夏の日差しが眩しくなり始めた頃――

 慶彦は自分の腹が張っているのに気が付いた。
 下っ腹が苦しくなって食欲が落ちた。

 最初は、
(食費が浮くな)
 くらいに思っていたのだが――
 しだいに、そう云ってもいられなくなった。

 口に水を含んだだけでも気持ち悪くなった。
 全身が冷や汗にまみれた。

 ある夜に、何も食べていないのに吐き続けたことがあって――
 ついに急患センタ―に駆け込んだ。

 駆け込んだ先は――
 あの日、「末期がん」を告げられた病院の急患センタ―であった。

 診察した医者は、今度は年配の女性だった。

「腸が詰まってるね。がんが大きくなってる。切除しないと――」

(手術か?)

 不審に思った。
 たしか「末期がん」を宣告した医者は、

 ――手術はできない。

 と云った。

「完全に治るための手術は無理さ。けど、今の状態は苦しいだろ? これを一時的によくする手術だったら、大丈夫だよ」
 老女医は説明した。

 慶彦は手術を受けることにした。

 遠方の親類の女性に電話をかけ、入院の準備を手伝ってもらった。
 女性はイヤな顔はみせたが、最低限のことはやってくれた。

 手術の費用は、なけなしの貯金をあてることにした。
 せめてもの老後の蓄えにと、とってあったものだった。

 かまわなかった。
 今となっては、老後の心配など、必要なかった。

 手術を受け、腹の傷が痛まなくなる頃には――たしかに、体調はよくなった。
 腹の張りはなくなり、食欲も少しは戻った。

 退院の予定は意外にあっさりと決まった。

     *

 退院の日は残暑が厳しかった。

 病院近くのバス停には、その日も高校生の集団がたむろしていた。
 定期考査が終わったばかりであるらしかった。

 その人だかりの中に、あの少女の姿をみかけた。
 奈津江の横顔によく似た、あの少女である。

 今の慶彦には恐いものがなかった。

「よお」
 慶彦は少女の前に立ちはだかった。

 少女は、とっさに肩を強ばらせ、バッグを胸の辺りにまで引き上げた。

 が――
 今度は逃げ出したりはしなかった。

「何か用ですか」
 少女の声は、思ったよりも芯が通っていた。

「覚えてるか。何ヶ月か前に声をかけた――」
「え、あ、はい――」

 少女は真っすぐに慶彦の視線を受けていた。

     *

 少女は智佳(ともか)と云った。

 今度はまったく逃げる素振りをみせなかったので――
 一度は、本当に奈津江と自分との子ではないかと、考えた。

 が、違った。

「だって、私の母親は加津子(かつこ)だから――」
 と云う。

「それ、本名か?」
 と詰め寄る慶彦に、
「まさか、そんな――」
 と、智佳は笑った。

「でも、よく似てるんだ――こうしてみる横顔が――」
 慶彦はコーヒーを飲む智佳の横顔を覗きみた。

 智佳は手帳を取り出し、写真を1枚テーブルの上に置いた。
 写真には、痩身の中年の男性が写っていた。

「誰だ?」
「私の父親だった人――」
「ホントか?」
「似てるでしょ? とくに、その顎のラインとか――」

 たしかに、似ていた。
 智佳の父親であることは明らかだった。

「こいつ、今、どうしてる? 一緒に暮らしてるのか?」

 智佳は首を振った。
「一緒に暮らしたことなんてない。会ったのさえ、一度だけ――」

「一度だけ?」
「もう二度と会うことはない」
「なんで?」

 智佳は、ぬるくなったコーヒーを飲み干してから云った。
「自殺した」

 智佳は母親と祖母との3人で暮らしていた。
 父親と初めて会ったのは、中3の春だった。

 学校からの帰り道に、不意に名前で呼ばれた。
 いきなり腕を掴まれ、「オマエの父親だ」と名乗られた。
 恐くなって振り払い、逃げ出した。

 父親は追いかけてこなかった。
 その翌日に、駅のホームに飛び込み、電車にはねられた。

 母親は意に介さなかった。
「死んで当然の男だった」と云った。

 その言葉が信じられず――
 智佳は人間不信に陥った。

 祖母は「気にすることはない」と慰めた。
「あんたの母親は少し頭がおかしい」とも――

 このときに、祖母は父母の離婚の顛末を話してくれた。
「あんたの父親は、ずいぶんガマンしてくれた」と――

 それをきき、今度は父親に対して申し訳なく思った。
 なぜ、あのときに、あんな態度をとってしまったのか。

 もし、あのとき、何も云わずに逃げ出したりしなかったなら――
 駅のホームに飛び込むこともなかったのではないか。

 寝苦しい夜が続いた。

 そんなときに――
 慶彦に声をかけられた。

「あのときの父親と同じ目をしてた」
 と、智佳は云った。

「だから、わかったんだよ」
 と――
 この人も手放した自分の娘を求めているに違いない、と――

「それで、今度は逃げなかったのか」

 慶彦の声に落胆を感じとったのか、
「そんなんじゃないよ」
 と、智佳は笑った。

「父親の身代わりなんて求めてないし――」
「本当か?」
「うん」
「じゃあ、なんで逃げなかったんだ?」

 智佳は答えなかった。

     *

 2人は自然と何度も会うようになった。

 映画にいったり、食事にいったり――
 ときには、買い物にいったり、旅行にいったり――

 同じ部屋で寝ることがあっても――
 慶彦は智佳の肌を求めなかった。

 智佳も求めなかった。

 智佳が慶彦に父親の像を重ねているのは明らかだった。
 その期待に、慶彦は応えたかった。

 年を越し――
 雪が舞い――
 やがて、寒さが緩んできて――

 また、慶彦の体調が悪くなった。
 下腹部が洋梨のように膨れていった。

 医者は再度の入院を勧めた。
「がん細胞が腹の中に散らばっている」
 と云う。
 抗がん剤を流し込めば、いくらかはよくなる、と――

 慶彦は入院を拒んだ。

 が、智佳に強く促され――
 結局、今度も入院することにした。

 入院の準備は、今度は智佳が全てやってくれた。

 病室は2階で、桜並木の枝の一部がみえた。
 まだ二分咲きか三分咲きであった。

「あれが散り終わる頃には、オレは生きてない」
 慶彦がこぼすと、
「そんなことない」
 と、智佳は泣いた。

「ちゃんとみてよ」
 と――

「来年の桜も、再来年の桜も、10年後の桜も、20年後の桜だって――」
 と――

(それはムリだ)
 と、慶彦は思った。
 余命1年と云われている、去年の今頃に――

 が――
 そのことを、慶彦は智佳には告げなかった。

     *

 智佳は毎日のように病室を見舞っていた。

 2人は本当の父娘(おやこ)にみえた。

     *

 入院し、1週間が過ぎた日の午後――

 智佳が病室の中に入ってきて――
 その直後に、見知らぬ女が入ってきた。

「ちょっと、あんた! いいかげんにしなさいよ!」
 女は怒鳴った。
 智佳の腕を掴み、病室の外に引きずり出そうとした。

「痛い! やめてよ、お母さん――」
 智佳の顔が上気した。

 女は、たしかに智佳の母親であるらしかった。

 が――
 その風貌からは、とても智佳の母親にはみえなかった。

 薄汚れたワンピースで巨体を包み、はちきれる胸を粗雑に揺すっている。
 汗ばんだ額は厚手の化粧が崩れかかっていた。

 女は、自分の娘が見知らぬ男の世話をするのが許せなかったらしい。
 娘が、その男に自殺した夫の面影を重ねていることに、すぐに気付いたのであろう。

 騒ぎを聞きつけ、看護師たちが駆けつけた。
 事情を質そうとする看護師たちに、女は悪態をついた。

 ――高校生が中年の男の病室に入り浸るのをみて何も思わなかったのか?

 と――

 なだめようとする看護師たちを片っ端から罵倒した。

 その怒り方が、よく似ていたのである。
 誰かに――

 その「誰か」を手繰り寄せたとき――
 慶彦は深くため息をついた。

(奈津江だ)
 と――

 風貌は似ていない。
 まったく似ていない。

 が――
 怒り方は、そっくりであった。

 表情の作り方、声の発し方――

(そうか)
 思い出した。

 こんな怒り方をする女だったから――
(あんな酷いことが云えたんだな)

 胸のつかえが外れた。

 慶彦は、ベッドで仰向けになったまま、智佳の方に顔だけを向けた。
 洋梨のような腹のせいで、もう寝返りを打つこともできなかった。

 慶彦は智佳に伝えた。
「もういい。行けよ」

 智佳の口が半端に開かれ、止まった。

「やだ……」
 という声だけがもれた。

「いいから、行けよ」
「やだ!」

 しばらく押し問答を続けたあと、慶彦は智佳の顔を見上げて云った。

「ありがとう、今まで――」

 その言葉で、智佳の目がパッと開かれ――
 涙がこぼれ出た。

 窓の外で風が吹いた。
 満開の桜が、薄紅色の花びらを一斉に散らした。

「ずるい……!」
 と云い残し――
 智佳は慶彦の病室を飛び出した。

 智佳の母親は、娘を追いかけたりはしなかった。
 代わりに、憎まれ口を叩いた。

「それ、みたことか!」

 慶彦は、それを思わず咎め立てた。
「おい、ちょっと――」

「何よ」
 智佳の母親は攻撃的な態度を改めなかった。

「あんた、最低だな」
「なんだと」

 いきり立つ女の両脇を、病院の警備員が抑えた。

「けど――」
 と、慶彦は云った。

「あんたの娘は最高なんだよ」
 と――

「何、云っての?」
「それに見合う親になってやれよ」
「偉そうなことを!」

 女の怒鳴り声に――
 慶彦は思わず笑みをこぼした。

(たしかに似ている)

 それは――
 自分でも呆れるくらいに自然な笑みであった。

(こいつ、もしかして本当に奈津江なんじゃないか)
 とさえ思った。

 そんなわけはなかった。

 いや――
 そんなことは、どうでもよかった。

 奈津江のことも、奈津江が産んだかもしれない子供のことも――
 今となっては、もう、どうでもよかった。

 2階の病室の窓の外では、風が止んでいた。
 桜の木々は、少しの間だけ、薄紅色の花びらを散りとどめていた。

 ほどなくして、ふたたび勢いよく風が吹き――
 薄紅色の花びらは、一斉に巻き散らされていった。

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