男は得意の絶頂にいた。
巨大な会社をいくつも傘下におさめ、毎年、莫大な利益を挙げていた。
マスコミは男の経営手腕を褒めそやし――
アナリストは男の会社の株の値動きを好意的に予測した。
週刊誌は男のファッションが注目されていると報じ――
芸能リポーターは男が未だに独身であることを好意的に取り上げた。
男が街を歩くとき――
周囲は光に満ちていた。
(この世は自分のためにある)
と、本気で信じて疑わなかった。
街並でスレ違う女たちは、全て、自分に欲望の眼差しを送っているかのようであった。
――あの人と結婚したい。
と――
あるいは、
――お願い、こっちを振り向いて!
とも――
世の中の女たちは、全て、自分のために身悶えていた。
(愚かな女どもめ!)
と嘲(あざけ)っていた。
(誰が、お前らなんかと結婚するものか!)
と――
が――
ある朝のこと――
*
男が、いつものように高層ビルのオフィスに入ると――
不穏な知らせが届いていた。
外資系の投機家が今日中に乗っ取り工作を仕掛けてくるらしい。
男は、事態を正確には掴(つか)めなかった。
男は金融に疎かった。
早速、担当役員を呼びつけて対応策を質そうとした。
が、その役員は、すでに海外へと高飛びをしたあとであった。
彼が引き抜いてきた多く部下たちも、全てが行方をくらましていた。
男は悟った。
(はめられた!)
と――
金融に疎い自分に、有効な手だてがあるはずもない。
彼らを信じ切っていたがゆえに、受けたダメージは甚大であった。
進退は窮まった。
男は、にわかに、この世を虚しく思った。
自分の周囲に満ちていた光は、闇の帷(とばり)に取って代わられた。
「今日のランチは、どちらのシェフのになさいますか?」
事情を知らない女秘書が、いつもの澄ました口調で、問いかけた。
「今日はいい」
と、男は答えた。
女秘書は、いつものように、少しも怪訝な顔をみせることなく、
「かしこまりました」
と頭を下げた。
男は、このモダンなオフィスを抜け出して――
すぐにでも猥雑な下町に溶け込んでしまいたくなった。
それを――
男は、すぐに実行した。
午後の予定は全てキャンセルし――
女秘書には行き先も告げず――
社員の誰にも見咎められぬように非常階段を駆け降りて――
目の前のタクシーに飛び乗って――
高層ビルの林から一目散に逃げ出した。
*
タクシーのメーターが5桁を示し始めると――
以前は何も感じなかったのに――
今は、恐怖を覚えた。
男は慌てて運転手に告げた。
「ここで降ろしてくれ」
運転手は、怪訝な顔をみせたものの――
そのまま黙って料金を受け取った。
男は、名もないビル街に躍り出た。
街並でスレ違う女たちが、皆、美しくみえた。
それら美しい女たちへ――
男は、慈悲の視線を求めていた。
(頼む、オレを慰めてくれ!)
と――
あるいは、
(お願いだ、オレを見捨てないでくれ!)
と――
身悶えるのは――
今度は自分のほうであった。
が、もはや女たちは誰一人、欲望の眼差しを送らなかった。
むしろ、軽蔑の眼差しを送ってくる。
――バカな男が!
と、云われたような気がした。
――誰がアンタなんか相手にするか!
とも――
*
そのまま、あてもなくビル街をさまようと――
ビルの谷間に、一軒のラーメン屋の古びた暖簾が目についた。
その暖簾に何となく惹かれて――
男は、くもりガラスの戸を引いた。
湯気がムッと顔にかぶさった。
それを、懐かしいと感じる余裕もなかった。
「いらっしゃいませ」
と、威勢のよい掛け声がした。
男は丸椅子に腰掛け、出されたコップの水を口に含んだ。
ようやく、心が落ち着いた。
「ご注文は?」
と問いかけたオカミの容貌は――
小太りで年増のオバさんのものでしかなかったが――
男には聖母の化身のように思われた。
男は言葉に詰まった。
そんな男に、オカミは特段の関心を抱かなかった。
男の顔は知らないようである。
「ラーメンを――」
やっとの思いで、それだけを伝えた。
すると、
「しょうゆ、みそ、とんこつがありますけど――」
と返された。
「醤油で――」
と言葉を継ぐのが、精一杯だった。
(そういえば――)
と、男は追憶に耽った。
(昔、死んだ婆さんが云ってたな)
――ええか、夜空のお星さまは、夜が暗うなるから、光り輝きよる。
昼の明かるさじゃぁ、姿をみることもかなわん。
(今は「夜」なんだな)
と、男は思った。
街並でスレ違う女たちが、皆、光り輝いてみえるのは――
自分の周囲が闇で閉ざされているからである。
あの知らせを受け取るまでは、
(「昼」だった)
と、男は思った。
街並でスレ違う女たちが、とくに光り輝いてみえなかったのは――
自分の周囲が光に満ちていたからだった。
(「昼」のうちに、誰かと一緒になっておけば良かった)
と、男は思った。
そうすれば、これから訪れるであろう激闘の暮らしにも――
それなりの生き甲斐が見出せたはずである。
男は、以前の自分が、金に群がる世間の女たちを露骨に軽蔑しながらも――
心のどこかでは、少年が女に抱く憧憬のような感情を、静かに秘めていたことに気がついた。
が、もう遅い。
今となっては手遅れである。
「はい、しょうゆラーメン――」
と、店のオカミが云った。
大きなドンブリから、ふんわりと湯気が立ち上る。
(ラーメンを食べるのは何年ぶりだろう?)
最後に食べたラーメンは、思い出すこともできなかった。
多分、学生時代以来のことだった。
男は、無造作に置かれた割り箸立ての中から、一本を取り出して――
昔、よくそうしていたように、顔の正面で行儀よく割ってから――
店のオカミに云った。
「いただきます」
「はいよ」
という返事が――
今の男には、ふんわり立ち上る湯気に感じられた。
たったそれだけのことが――
深く心に染み入った。
(夜の闇だって、そんなに悪くはないかもしれない)
男は熱いラーメンを啜(すす)りながら――
目頭も熱くなるのを感じた。