父親と娘と


     ♪

 ある夏の朝のこと――

 男が自宅に戻ったら――
 リビングのテーブルには、妻の書き置きが残されていた。

 ――記入をお願いします。

 とある。
 その脇には、離婚届の用紙が添えられていた。

 朝は、まだ早かった。
 隣の家の炊事の音は、きこえない。セミの鳴き声だけが、徐々に高まり始めている。

 男は、しばらくテーブルの上の離婚届を眺めていたが――
 やがて、興味を失って面倒臭そうに視線を外し――
 胸元のネクタイを緩めた。

 と――
 そのとき――

 声がした。

「お父さん――」

 男はビクっと首をすくめ――
 背後を振り向いた。

 少女が立っていた。

 歳の頃は14、5――
 右手には大きなバッグ――まだ朝が早いというのに、すっかり他所(よそ)行きの格好でいる。

「なんだ、カエデか」
 と、男は云った。

 男の声は振えていた。

 その動揺を隠すように――
 男は質問を重ねた。
「どうした? 出かけるのか?」

「うん、そのつもり――お父さんの返事次第では――」
「どういうことだ?」

 娘は間髪を入れずに尋ねた。
「それ、みたんでしょ?」

「これか?」
「そう、それ、離婚届――お母さん、お祖母ちゃん家(ち)に帰ってっちゃったんだよ」
「そのようだな」

 しばらくの沈黙――

 やがて、
「これから、どうするの?」
 と、娘は訊いた。

「どうもしないさ」
 と、父親――

「ホントに?」
 娘は身を乗り出した。

「ああ」
 父親は落ち着きを払って、椅子を勧めた。

 娘はバッグを床に置き、テーブルの横に腰掛けた。

 父親も座った。

 しばらくの沈黙――


     ♯

 やがて――
 先に口を開いたのは、父親であった。

「お母さんが出て行った理由は、薄々はわかっている」

 娘は、疑わしい顔つきで訊いた。
「ホントにわかってる?」

「ああ」
「じゃあ、云ってみてよ」

 娘は、父親の顔を食い入るようにみつめた。

 父親は答えた。
「たぶん、お父さんの趣味に嫌気がさしたんだと思う」

「趣味? どんな趣味?」

 父親は、わざとらしく咳払いをした。

「驚くなよ」
「うん」

「実はな――」
 父親は、やや前屈みになった。

「――お父さん、5000枚ほどのアダルトDVDを持っている」

 娘は両の拳を大げさに振り上げてみせた。
「あのね、お父さん――お母さんだって大人なんだから、エロビデオくらいのことで別れるわけない……」
 ……じゃない――と続くはずの言葉は――
 不意に途切れた。

 振り上げられた両の拳がテーブルの上に静かに下ろされる。
「――っていうか、ホントに5000枚も持ってたわけ?」

 父親は、もう一度、咳払いをした。
「正確には5337枚だ――いや、昨日2枚買ったから5339枚――ゴミにサンキューだ」

 沈黙――

 やがて、
「下らないダジャレね」
 と、娘――

「そうか? 『5339枚』から直ちに『ゴミにサンキュー』を思いつく瞬発力は、ちょっとしたもんだと思うがな」

 娘は大真面目に口を尖らせた。
「だって、ホントに5339枚あるか、私には確認しようがないし――」

「だったら、1枚1枚、確認してみるか?」

 娘は首を横に振り、強くテーブルを叩いた。
「いいよ!」

 しばらくの沈黙――

 やがて、
「――っていうか、そんなにたくさん、どこに隠し持ってたわけ?」
 と、娘――

「会社の資料室だ」
「会社の?」
「『超重要機密資料』として段ボール箱の中にとってある」
「なんで会社なんかに?」
「決まってるだろ。若い部下たちに使い回しさせるためだ。まあ、一種の裏金みたいなもんだな。つまり、これがホントの――」
「――『裏DVD』とか云ってんじゃないわよ」

 父親は意外そうに娘の顔をみた。
「よくわかったな」

「まさか、ホントに裏DVDじゃないんでしょうね?」
「大丈夫だ。全部、修正は入ってる」
「どうだか――」
「1枚1枚、確認してみるか?」

 ――ドン!

 と、テーブルを叩く音――
「いいってば!」
 娘は両の拳を強く握っていた。

 しばらくの沈黙――

 やがて、
「お母さんが出て行った理由はね、たぶん、これだよ」
 娘は、携帯電話の画面を示した。


     ☆

 携帯電話の画面には――
 背広姿の中年男がセーラ服の少女と腕を組んで歩いているところであった。

「これ、お父さんでしょ?」

 娘の詰問に――
 父親はあっさりと頷いた。
「そのようだな」

「隣にいる子は誰?」
「さて、誰だったかな」
「とぼけないでよ」
「お母さんじゃないのか?」
「お母さんなわけないでしょ! だって、セーラ服、着てるんだよ?」
「なにを云っている? お母さんだってセーラ服くらい着ていたさ」
「そりゃ昔は着てたでしょうけれど……」
「いや、そんなに昔じゃない。カエデが生まれるちょっと前までは、毎晩のように着てたんだ」

 娘は目を丸くした。
「何のために?」

 父親は、ニコリともせずに云い放った。
「夜のロールプレイング・ゲームってヤツさ」

「あのね、お父さん――」
 娘は強く握り締めた両の拳を激しく上下に振った。

「――そんな話、娘にきかせないでくれる? ――っていうか、この子、いったい誰よ? 云わないなら私から云うわよ。レイナでしょ!」
「レイナ? 誰だ、それは?」
「とぼけないで! 最近、お父さんが仲良くしてる中学生じゃない! 服を買ってあげたり、御飯を食べさせたり――」

「驚いたな――」
 父親は、すっかり関心したような表情で――
 自分の娘に2度、3度と頷きかけた。
「――そこまで掴(つか)んでいたとは、な」

「驚いたのは、こっちよ」
 と云う娘に、
「それは、そうだろう」
 と、父親は応じた

「はあ?」
 と睨み付けてくる娘を横目に――
 父親は、わざとらしく左手を下顎に添えてみせた。

「娘としては、自分の父親が若い娘(こ)にもてるなんて、ありえない事実だろうからな。しかし、現実は、こんなもんよ」
「なに得意になってんの?」
「なにか云ったか?」

 娘は、父親を哀れむように、云った。
「お父さん?」

「なんだ?」

「レイナが私の親友だって知ってた?」

 しばらくの沈黙――

「いや、知らなかった」
「……でしょ?」

 再び、沈黙――

 やがて――
 父親が取り繕うように口を開いた。
「――云っとくが、お父さん、やましいことは何もしてないぞ。私たちは、あくまでプラトニック・ラブだったんだ。第一、そんなに、しょっちゅう会ってたわけでもないし――服を買ったのも御飯を食べさせたのも、ほんの数えるほどだ」

「その代わり、3LDKのマンション買ってあげたんでしょ?」

 再び――
 しばらくの沈黙――

「そんなことも、あったな」
 と、父親――

「中学生に3LDKは広すぎるんじゃない?」
「たしかに、勉強部屋には広すぎたようだが――」
「あ、そういう名目だったんだ」
「しかし、幸い、向こうの親が理解を示してくれてな。今では親も一緒に住んでいる。おかげで私は行きにくくなってしまったが――」

 しばらくの沈黙――

 やがて
「ねえ、お父さん――」
 と、娘の声――

「なんだ?」

「ダマされてない?」

 再び沈黙――

 やがて、
「そうかもしれん」
 と、父親――

「いや、気づいてるんなら、いいけれど――」

 再び沈黙――

 窓の外では、次第に高まり始める蝉の声が――
 夏の日差しの強さを、音で伝えている。

 やがて、
「じゃ、私、行くから――」
 娘はバッグを持って立ち上がった。

「ちょ、ちょっと待て!」

 父親は慌てて腰を浮かせた。
「お父さんが、この後、どうするつもりか、きかなくても、いいのか?」


     ♭

「じゃあ、どうするつもりか、云ってみてよ」
 娘は横目で父親をみて云った。

「実は、新しい仕事を始めようと思っている」
「新しい仕事?」
「そうだ」
「どんな仕事?」
「きいて驚くな。芸能プロダクションの仕事だ」
「はあ?」

 娘は、口をポカンと開けた。

 かまわず――
 父親は、まくしたてる。

「10代の少女たちを次々とブレークさせて、芸能界に一大恐慌を巻き起こしてやろうと思っているんだ」
「一大恐慌? 『一大旋風』の間違いでしょ?」
「いや、間違いではないぞ。自分の持ってるものは全て曝け出させ、心身ともにボロボロにせねば、ブレークしたことにはならないからな」
「ブレーク(break:壊れる)って、そういう意味じゃないし――っていうか、そんな方針のプロダクションに誰か入ってくれるの?」
「そう。そこなんだ。差し当たり、レイナが入ってくれそうなんだよ。『芸能界でブレークしたくないか?』って云ったら、一も二もなく乗ってきた」
「いや、それ『ブレーク』違いだから――」
「いや――お父さんがみたところ、あの娘(こ)にはマゾヒスティックな一面がある。一見、サディスティックなんだが――」
「そうやって、レイナとSM遊戯を楽しんでたの?」
「まあ、そういうことだ」
「とんだプラトニック・ラブね」
「十分に観念的だろう?」
「まあ、ね――プラトンが聞いたら泣くけどね」
「もしかして、お前も興味あるのか、お父さんたちのようなプラトニック・ラブに?」

 ――ドン

 再び、テーブルの上に娘の拳が振り下ろされた。

「ないから!」

 父親は落ち着きを払って云った。
「まあ、そう怒るな。言葉のアヤというものだ」

「私、お父さんのそういうところ、大っ嫌いなんだけど――」
「そうか。お父さんは、カエデのそういうところが大好きなんだがな」
「はあ?」
「実はな、今回、芸能プロダクションを作るのは、レイナのためではないんだよ」
「じゃあ誰のためよ?」
「お前のためだよ、カエデ――」
「私?」
「そうだ」
「私、ブレークなんかしたくないんだけど――」
「そうなのか? もったいない。いい女優になれると思うんだが――」
「なれるわけないじゃん。私、レイナと違ってゼンゼン可愛くないし――」
「いや、お前も十分に可愛いぞ」
「それは、お父さんが私の父親だから、そう感じるんであって――」

 娘は、天井を仰いだ。

 父親は椅子を引き、改めて娘の方に向き直った。
「いいか、カエデ――レイナがお前の親友と知らなかったと云ったが、それはウソだ。もちろん、最初から知っていたのだよ。むしろ、お前の親友だからこそ、レイナを交際相手に選んだんだ」
「ウソばっか――」
「ウソではない。レイナとの交際は、あくまでカエデと同じ年頃の娘の気持ちがわかりたくて、仕方なく始めたことで――」
「どこから、そんな理屈が出てくるわけ?」

 父親は娘の質問には答えなかった。
「――というわけで、カエデ、どうだ? お父さんのプロダクションに入って、お父さんと一緒にAV女優を目指さないか?」

「話、飛びすぎだし――っていうか、女優ってAV女優のことだったの?」
「当たり前だ。何のためのゴミにサンキューだと思っている?」
「意味わかんないから――」
「AVがダメなら、普通の女優でもいいんだぞ」
「あ、AVのほうが格上なんだ」

 父親は、それには答えず、おもむろに口を開いた。
「お父さんはな、実はカエデを女優に育てるのが、昔からの夢だったんだ」

「え、それ、初耳――いつから持ってたの、そんな夢?」
「カエデが幼稚園の演劇会で『赤ずきんちゃん』をやったときからだ」
「はあ?」
「あのときのカエデには妙な色気があって、お父さん、ずいぶん関心したもんだ」
「あのとき、私がやったのは、お婆さん役なんですけど――」
「狼に食べられるところが実にミダらでイヤらしかった」
「それって、単に、お父さんの頭の中がミダらでイヤらしかっただけなんじゃないの?」
「何を云っている? そんな気持ちにさせたのはカエデだぞ」
「どういうこと?」
「あの頃のカエデは、何かあるとすぐに『パパ! パパ!』と云って、お父さんの尻を追いかけ回してたからな」
「その云い方、激しく誤解を招くから――」
「誤解ではない」
「仕方ないじゃん! だって、その頃の私は、まだ子供だったんだから!」
「そうだったな。あの頃のカエデは、まだ、これくらいだったな」

 にわかに――
 父親は、テーブルの高さくらいに右手をかざし、感慨にふけった。

 そんな父親の動作に、娘が両目を白黒させていると――
 不意に、父親が娘の顔を凝視した。

 つられて――
 娘も思わず父親の顔を凝視した。

 父親は云った。
「なあ、カエデ――」

「なに?」
「これからも、お父さんと一緒に暮らしてくれないか?」

 しばらくの沈黙――

 やがて――
 娘のかすれる声――

「え?」


     ♂

「実は、さっきから、それが云いたくて――でも、云えなくて困っていたんだよ。それで、アダルトDVDとか芸能プロダクションとか、話をでっち上げて、どうにか場をつないでいたんだ」

「なんかムリがあるなあ……」
 と訝る娘の声に、先ほどまでの力はなかった。

 父親は、再び、娘の顔を凝視した。
「お父さんは、これからもカエデと一緒に暮らしたいんだ」

 しばらくの沈黙――

 やがて――
 娘は、今度は父親の顔をみずに、云った。
「じゃあ、レイナとは別れてくれる?」

「どうしてだ?」
「だって、ヤダもん。父親と親友が付き合ってるなんて――」

 しばらくの沈黙――

 やがて――
「わかった。カエデがそう云うなら、別れよう」
 と、父親――

「ホントに?」
「もちろん――交際相手よりも娘のほうが何倍も大事だからな」

 それをきき――
 娘は、思いのほか無邪気な笑顔をみせた。

「よかった。だったら、お父さんと、これからも一緒に暮らしてあげる」

 父親は欣喜した。
「ありがとう、カエデ――お父さん、嬉しいぞ」

「やめてよ、照れるから――」

 と――
 そのとき――

 玄関の呼び鈴が鳴った。

「誰だろ? こんな早くに?」
 そう云って娘が席を立つ前に――
 父親が血相を変えて席を立ち、玄関先の方へと一目散に走って行った。
 その背中を、娘が追いかける。


     ♀

 玄関先には――
 別の少女が苛立った様子で立っていた。

 歳の頃は14、5――セーラ服をまとっている。

「ちょっと、遅いよ! 何やってんのよ!」
「す、すまん、ちょっと長くなってしまって――」
「部屋の掃除に、どれくらい時間かかってんのよ?」
「それが、思ったより汚れててな」

 男は額に汗を浮かべ、必死になって次の言葉を探していた。

 が――
 背後に立つ自分の娘の気配に気が付くと、そのままの姿勢で硬直した。

 娘は、自分の父親と自分の親友とを交互にみやりながら、訝っている。

「なんだ、レイナを外を待たせてたわけ? お父さん、別れる気、ホントにあるの?」
「いや、その……、そうだな……」

 それをきいて、玄関先の少女が大声をあげた。
「ちょっと、別れるって、どういうこと? アタシたち、今日から、ここで一緒に住むんじゃなかったの?」

「なに? そんな約束してたわけ?」
 娘が容赦なく追い討ちをかけた。

「そうよ」
 と、玄関先の少女――

「ちょっと、どういうつもりよ?」
「いいじゃない。カエデのお母さん、もう出てったんだから――」
「うちのお父さんに買ってもらった3LDKがあるでしょ?」
「あれは、うちの母さんたちに取られちゃったから――」
「やっぱ、そうなんだ! ――っていうか、ホントはレイナもグルだったんじゃないの?」

「あら、バレてた?」
 玄関先の少女は、間髪も入れずに答えた。

「ヤケにあっさり認めるのね」
「だって、もう十分かなと思って――」
「なにが?」
「だって、カエデのお父さんには他にも色々と買ってもらったし――母さんは宝石、父さんは外車、兄さんはエレキギターにシンセサイザー……」
「そんなに買ってもらってたの?」
「そう。だから、もう、この辺でいいかなって――そろそろバイバイしようかなって――じゃね、バイバイ!」

 そう云い残し――
 玄関先の少女は、二人のもとを足早に去って行った。

 しばらくの沈黙――

 やがて――
 娘は、父親に向かって、ボソリと云った。
「やっぱダマされてたじゃん――しかも、かなり計画的に――」

「そうだな」
「もう一度、訊くけど――お父さん、これから、どうするつもり?」
「頭を丸めて托鉢にでも出ようかと思う」
「スゴい心境の変化だね」
「それか、修道院にこもって神に祈るか、モスクにこもってコーランでも唱えるか――」
「できもしないことばっか云わないでよ」
「では、今の会社で真面目に働こうと思う」
「そうしときなさい」

 父親は天井を仰いで、ポツリと呟いた。
「なあ、カエデ――」

「なに?」
 と、娘は答えた。

「お母さん、帰ってきてくれると思うか?」

 娘は即座に首を振った。
「ムリだと思うよ」

「どうして? だって、もうレイナとは、これっきりなんだし――」
「あ、さっき私が云ったこと、ウソなの」
「ウソ?」
「お母さん、ホントは外に男つくって出て行ったから――」
「まさか! どんな男だ?」
「映像作家――アダルトDVD専門の――」
「なに?」
「知らなかったの? お母さん、最近、熟女AV女優のバイト始めてたんだよ」
「バカな――」
「だから云ったでしょ――お父さんのエロビデオくらいじゃ離婚しないって――」
「そう云えば、最近、やけにお母さんそっくりの女優をみかけたんだが、そういうことだったのか――」
「5000枚も持ってんなら、もっと早く気づきなよ」
「信じられん」
「なんで? 十分に素質ありじゃん。だって、若い頃のお母さんってセーラ服プレイとか平気でやっちゃう人だったんでしょ?」
「そうだったな。あの頃は嫌がるお母さんを無理に調教して弄(もてあそ)んでいたわけなんだが――」
「うわ、最低――」
「そうか。実は、あれで、すっかり味をしめていたんだな。気づかなかった」

 しばらくの沈黙――

 やがて、
「ねえ、お父さん――」
 と、娘――

「なんだ?」
 と、父親――

「お父さんたちって、ホントに、わかりあえてなかったんだね」
「そうだな」

「悲しいね」
「そうだな」

 蝉の声は、夏の日差しに当てられて――
 少しずつ滾(たぎ)り始めていた。

 おしまい♪



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