生理学は、実に幅の広い学問だと思っております。
幸い私は色々な方の生理学像を伺う機会に恵まれました。
個々の生理学像は、実に多岐にわたります。こんなにも多岐にわたるとは、正直、思いもよりませんでした。
生理学の「生」を生物の「生」と見る向きがあります。
一方、生理学の「理」は物理の「理」だと見る向きもあります。
おそらく、どちらも正しいでしょう。
私は、生理学の「理」を物理の「理」と思い込んだ口でした。
生体の仕組みを物理学的に記述する学問だと考えたのです。
ですから、学生時代は、生理学よりも物理学の教科書に親しみました。物理の基本は、できるだけ若い内に吸収しろと聞かされていたからです。
医学生物学の世界に入り、最初に戸惑ったのが、何をもって「難しい」とするか、でありました。
私の在籍した東北大の医学部では、毎年5月に、同窓会の催しがあります。
私が入学した年には、さる高名な物理学者が招かれました。
私はアルバイト要員として会場にいましたが、その方の御講演のときには席を外しておりました。
戻ったのは、主催者側の答礼の辞が始まった頃です。
当時、学部長を務めておられた平則夫先生が御挨拶なさいました。平先生の御専門は薬理学です。
「我々、医学生物学者は、何か複雑な現象をみつけたときに面白いと考える。だから、つい物事を複雑に考えたがる。しかし、物理学では、常に物事を単純に考える努力がなされている。我々は、自分たちの習性を、一度は省みるべきではないか」
そのような趣旨のお話だったと記憶しております。
その後、御本人の書かれたものなどから、先生が、一度は物理学を志されたこと、大学院時代は生理学を専攻されていたこと、などを知りました。
物理学の難しさは、いかに自分の思い込みを看破するのか、というところにあるといいます。
しばしば引き合いにだされるのがニュートン力学です。
曰く「ニュートン力学を最初に理解したのはニュートンではない。アインシュタインである」と――
ニュートンは、いわゆるニュートン力学を定式化した際に、その前提として、絶対時間や絶対空間を取り入れました。
東京の1時間もパリの1時間も変わらない。仙台の1メートルもチューリッヒの1メートルも同じである――これが絶対時間や絶対空間の概念です。
私たちの日常感覚に合致する概念と言えます。
しかし、これでは、ある実験結果が説明できないのです。
詳細は成書に譲りますが、その実験結果を突き詰めていくと、空間や時間は絶対的な尺度ではなく、むしろ光速が絶対的な尺度のようにみえるのだといいます。
アインシュタインは、その点に着目し、いわゆる光速不変の原理を導入し、時間や空間の絶対性を否定しました。
つまり、ニュートン力学における時間や空間の限界を最初に看破したのがアインシュタインだったのです。
門外漢が相対論を学ぶときの困難も、ここにあると言えます。
学生時代、私は、次の問題の答えに、容易に納得できませんでした。すなわち、
「光速で走る人が、手にした鏡を覗き込むときに、その人の顔は映るのか?」
という問題です。
一見、映らないように思えます。時速50キロの車から時速50キロでボールを投げると、ボールは時速100キロとなります。
しかし、秒速10万キロのロケットから秒速30万キロの光を発しても、光は秒速30万キロのままである――これが光速不変の原理です。
顔に反射した光が鏡に至ることで、顔は映ります。顔も鏡も光速で動いていたのでは、顔は映らないのではないか――
ところが、この議論は誤りなのです。
光速はいかなる観察者にとっても一定であるというのが光速不変の原理ですから、光速で走る人にとっても光の速さは不変です。
ですから、顔は映ります。
もし、映らないとしたら、光速で走る人にとっての光速がゼロということになってしまい、光速不変の原理に反することになり、矛盾します。
私は、この疑問を解くのに長い時間を要しました。
いま考えれば、なぜ、こんなことで悩んだのかと呆れます。
しかし、これが物理学の「難しさ」なのです。
ある意味では、虚ろな「難しさ」と言えるかもしれません。
こんな「難しさ」に親しんでいると、自然、「難しい」の観念も変わってきます。
複雑なカスケードや非線系の微分方程式をみても「難しい」とは感じなくなるのです。
いわゆる絶対時間や絶対空間の否定といった抜本的な転回が求められない限り、「ややこしい」とは思っても「難しい」とは思わないのです。
こうした「抜本的な転回」を拠り所とするのが生理学ではないかと、私は考えます。
免疫学も、病理学も、分子生物学も、突き詰めて考えれば、生理学です。
ノーベル賞が「医学生理学」と一括するところをみても、生理学の包括性は明らかでしょう。
このような状況下で「生理学の専門家」は、何を目指すべきなのでしょうか?
もちろん、答えは簡単ではありません。
私は、他分野の生理学者が考えもしない問題を設定するところから始まるのではないかという気がしています。
前述の「抜本的な転回」も、そこに絡むのではないでしょうか?
これまでの医学生物学にない「難しさ」を発見することが、生理学に課せられた重要な役割の一つだと私は思うのです。