高校時代、学校の先生に云われた言葉がある。
「――いいか。きみら、家庭教師なんか、やるんじゃないよ」
というものだ。
家庭教師はラクに稼げる。
二十歳そこらでラクをしたら、将来、大変なことになる。だから、家庭教師なんか、やるな――
そういうことが、おっしゃりたかったのだと思う。
が、当時の僕には、推し量るすべもなかった。
実は、悪質な家庭教師が少なくない。
「悪質」というのは、保護者の意思や感情を理解できない、ということである。
特に競争の少ない地方では、そういう家庭教師が多い。
多くの親は黙って見逃す。
だから、悪質な家庭教師が痛い目に合うことはない。
痛い目に合うとしたら、大学を卒業し、社会に出てからだ。
僕自身の話をする。
大学生になって、仙台に移り住んだ。
その半年後に、塾講師のアルバイトを始めた。
(家庭教師が駄目なら、塾講師――)
という考えだった。
僕なりに、
「家庭教師なんか、やるんじゃないよ」
の助言に、敬意を払ったのだと思う。
自分の学力や受験技術には自信があった。
よい指導ができると思っていた。自分の武器を活かせると思っていた。
が、始めて数ヶ月で辞めようと思った。
きっかけは、先輩講師の苦言だった。
「教えられる側の気持ちを考えたことがあるか?」
と云われた。
カチンときた。
僕より2級上の先輩だった。
僕は2浪している。
だから、同い年の先輩であった。
僕が見た限り、その先輩の「受験技術」は二流であった。
生徒への説明は曖昧――無駄な解説が多く、教わる方が目を白黒させている。
(これで、よく務まるな)
と思った。
だから、
(あなたに、いわれたくはない)
と腹をたてた。
言葉には出さなかったものの、顔には出ていたであろう。
それでも構わないと思った。
次の日から、別の職を探し始めた。
さっさと辞めるつもりでいた。
が、今にして思うと、その先輩の指摘は正しかった。
僕は、たしかに生徒の視点を考えていなかった。
月謝を払う親の気持ちも、意に介さなかった。
別の職を探し始めてみたものの、思うようにはみつからなかった。
その頃、大学の進級に注意が行き始めたこともあって、辞めるきっかけを失った。
そうしているうちに、僕を咎めた先輩が辞めた。
腹立たしさは薄れていった。
結局、その学習塾には6年弱も籍を置いた。
大学院生になった今も、時々、手伝っている。
6年間は浮き沈みの連続だった。
「先生は頭良すぎて、僕らの気持ちがわからないんだよ」
と、多くの生徒が去っていった。
他方、見事、第一志望の大学に合格する生徒もいた。
落ちたのに、
「ありがとうございました」
と云ってくれる生徒もいた。
僕らは受験指導という技術で金をもらう。
が、技術に優れていても、それだけでは稼げない。
生徒や保護者に信用されなければ、稼げない。
難しい入試問題をサラサラ解けるだけでは駄目なのである。
一方で感謝され、他方で悪態を付かれ――緊張の連続であった。
顧客は、信頼されれば、容易に月謝を払ってくれる。時には、敬意まで払ってくれる。
が、信頼されなければ、払ってくれない。すぐに逃げてしまう。
当然だ。
顧客は善意で金を払うわけではない。
そんな日々が続けば、イヤでも生徒の歓心を買う気になる。
誰だって逃げられたくはない。月謝も払わずに逃げるような生徒を出さないように、這いつくばって努力をする。
例えば、定期考査前に無料で補習を組んだりする、というように――
仙台の学習塾の時給は安い。
打ち合わせや残務処理の時間も含めて計算すると、コンビニよりも安い時給になった。
大都市圏の相場では考えられない。
東京の相場を知っている後輩が云った。
「仕事は時給の分だけ、すればいい」
と――
正論である。
が、そのときの僕は、なぜか、変だと思った。
金へのこだわりが失せていた。
たしかに、金は欲しい。
「教えられる側の気持ちを考えたことがあるか?」
と詰られて腹がたったのは、給料が安かったからでもある。
が、もらう金額の高低が自分の仕事の質とは無関係になっていることに、当時の僕は気づいていた。
もう少しカッコ悪く云うと、
(金ではない報酬で虚栄心を満たす)
ということを覚えたのだった。
いつの頃からか、金以外の何かを求めて働くようになった。
その「何か」を無理に言葉にすれば「生徒や保護者の信頼」ということになる。
が、本当に重要だったのは「生徒や保護者の信頼」を勝ち取った後に得られる達成感や満足感だ。
自分の見栄が満たされる瞬間である。
アルバイトに限らない。
人は、ときに虚栄心を満たすためだけに、仕事をするのではないか――そう思うことがある。
なぜ、金を稼ぐのか?
食べていくためである。
なぜ、食べていくのか?
腹が減るからである。
生きることに意味など、ない。
生きるとは、いかに腹が減らないようにするか、である。
だから、なぜ金を稼ぐのか、という問いなど愚問といえる。
それよりも、いかに金を稼ぐのか、いかに仕事をこなすのか――のほうが大切になる。
虚栄心の満たし方――そこにこそ、人の個性が出る。
生きる価値とやらを金に絡めて議論したいのなら、せめて、その辺に留意するべきであろう。
アメリカのSF・TVドラマ『スタートレック』の世界には金がない。
登場人物たちは、金を得るためではなく、自己形成のために、あるいは向上心の維持のために働く……のだそうだ。
そういう云い草は、カッコ良すぎて、カッコ悪い。
とはいえ、そんな未来社会を考えた人の云い分は、多分、僕と違わない。
高校時代、僕らに、
「家庭教師なんか、やるんじゃないよ」
と云った先生の真意も、同じようなものだったろう。
どうしても家庭教師をやりたいのなら、なぜ家庭教師でなければ駄目なのかを考えろ、ということだ。
――いかに金を稼ぐか?
――家庭教師で稼ぐ。
そんな自問自答を経てなら、やってもよい。
「家庭教師なんか、やるんじゃないよ」
の真意は、そこにあったと思っている。