物語の中の女性――小説『紫苑』


 紫苑――
 いい名だ。響きもいいが、字面もいい。
 なんと美しく、愛らしいことか。
 作者の無償の愛が感じられる。

 花村萬月作、小説『紫苑』の山崎紫苑は、玲瓏の暗殺者。政府要人から暴力団幹部に至るまで、ありとあらゆる獲物を屠る。
 今年で二十一歳。修道院に孤児として預けられた。世間知らずで育ったため、どこか稚ない。美しい容姿を備えるが、その様は「美女」と言うよりは「美少女」である。

「紫苑」という名は、育て親の神父につけてもらった。和服の襲の色と、エルサレムにある聖なる丘の名に因んだものという。
「神父さまが二重の意味を込めて付けて下さったの」
 と、嬉しそうに話す。

 しかし、その「神父さま」は、紫苑を暗殺者に仕立てた張本人――
 紫苑の育った修道院は暗殺組織でもあったのだ。
 無垢な紫苑は、その事実を客観的に捉えることができない。

 ある夜、紫苑は刺客に襲われる。
 大掛かりな組織が、彼女を狙っているらしい。

 そんな中、フリーカメラマンの伊東という男と出会う。
 そして、現実世界の猥雑さを知り、自我が芽生え、異性への慕情を覚える。
 自己と組織の存在に疑問を挟む紫苑――
 やがて、紫苑を狙うのは、他ならぬ自分を育てた修道院であることが分かる。あまりにも優秀な刺客であるが故に、紫苑は、組織から、切り捨てられたのだ。

 紫苑は単身、報復に出る。
 かつての同胞たちを殺し、実父のように慕っていた「神父さま」をも殺す。
 しかし、尚も、組織の「上層部」が、紫苑を追い詰める。

 心の支えを失った紫苑は、伊東のアパートに逃げ込み、純潔を捧げ、共に逃げて欲しいと迫る。
 伊東も紫苑の想いに応えるが……。

 実は、伊東は「上層部」の一味でもあった。
 長い逃避行の末、オホーツクの流氷の上で絶体絶命の窮地に立たされた紫苑――
 そんな彼女を救ったのは、皮肉にも、万一の時、伊東と共に用いるはずだった自殺用の弾丸で……。

 物語の書き手が異性を主役に据える時、それは自分の理想の異性像であることが多い。
 異性のことは、よく分からない分、好き勝手に書ける。だから、自分の趣味が如実に出てしまう。
 紫苑も、恐らくは、そんなタイプのキャラクターであろう。

 しかし、こうしたキャラクター造形手法には、常に危険が伴う。
 例えば、紫苑は、やけに車や銃の話に詳しい。
 理由は簡単だ。
 多分、作者花村氏が、その手の話を好むから――
 紫苑にも、自分と同じ趣味を持ってもらいたいから――

 ところが、現実には、そんな女性は、まずいない。
 皆無ではないだろうが、少なくとも、そんな女性は「女性らしい」とは、いえない。

 作家は、男の視線と女の視線とを、併せ持つ必要がある。
 作家は、自身の異性キャラクターのリアリティが否定されることを、恐れる。
 にも拘らず、作家は、自分の好みのキャラクターを作りたがる。
 もちろん、眉唾にならないよう細心の注意を払って――

 作家は自分のキャラクターを愛したいと願う。
 作者に愛された主人公こそが、物語に鮮度を保たせ、劇的な結末をオリエンティートするからだ。

 おそらく、紫苑は、作者にとって、実にかわいらしく、頼もしいヒロインなのだが、一般に男性が好むハードウェアにやたらと詳しく、女っぽくない。ちょっと現実味に欠ける。
 そこで「組織に純粋培養された世間知らずの稚い暗殺者」という設定が登場する。
 作者は見事、紫苑にリアリティを与えことに成功した。

 こうして一個の人格となったキャラクターは、やがて一人歩きを始め、多くの場合、彼女等は、作者のさらなる「愛」を受けることになる。

 紫苑は作者に愛された。
 文中の筆致が、それを物語る。
 どこかしら温かみのあるヒロインの心情描写――
 そこには、紫苑を作中の人物として割り切れていない節がある。
 もちろん、責めるべきことではない。
 人たるもの、理想の異性を好ましく思わないはずがないのだから。

 花村氏にとって紫苑は、もはや一人の女なのである。

 そんな訳だから、この小説のラストを書いている時の花村氏の心理状態を想像すると、ちょっと面白い。

 紫苑は遂にフリーカメラマンの伊東を愛してしまう。
 作者花村氏を差し置いて、である。

 花村氏は考えた。

 ――このまま紫苑をくれてやろうか?

 ――とんでもない。紫苑は俺の可愛いヒロインだ。

 ――じゃあ、どうするか?

 ――簡単だ。決裂させればいい。

 こうして、伊東は紫苑の敵だったということにされてしまう。
 花村氏は一介のキャラクターによるヒロインの独占を、阻止した訳だ。

 いや、いや。
 これは僕の邪推。

 しかし、実際のところ、こうしたヒロインを生み出した以上、それを「くれてやる」キャラクターを作るのは、なかなかに大変なことだろうと思う。
 同じくらいの、或いはそれ以上のエネルギーを余計に費やさなければならない。
 生半可な相手に愛しのヒロインを任せられる訳がないのだから――

 ご存じの方も多いはず――
 最近、この作品はVシネマで映像化された。

 しかし、僕が知る限り、花村氏自身は、そのことについては、まったく触れていない。
 書き下ろしの後、三年にして漸く日の目を見た作品だそうである。
 そんな『紫苑』を、いじらしく思っているのか、あるいは、紫苑を演じられる女優など、この世のどこにも存在しないという、かたくなな姿勢を保っているのか……?

 何はともあれ、紫苑はよい娘だと僕も思う。
 花村氏の溺愛振りは、よく分かる。

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