第8話 ミカさんのこと


 松田聖子さんの『天使のウインク』に思い入れがある。

 10代序盤――
 僕はブラスバンド部に所属し、クラリネットを吹いていた。

 ――吹く真似をしていた。

 というのが正しい。
 譜面もわからず、ただ周りに合わせて適当に吹くだけの、いい加減な演奏者だった。

 あるとき、不意に『天使のウインク』が演奏曲目に上がる。
(ブラスバンドなんてどうでもいい)
 と思い始めた頃だった。

 それでも――
 僕は、この曲が好きになる。
 旋律や伴奏が好きになる。

 松田聖子さんのことは、とくに意識しなかった。
 作詞・作曲が誰かも意識しなかった。
 僕が好きな尾崎亜美さんの作品であることを知ったのは、今年のことである。

 以後、この唄を耳にする度に――
 僕はブラスバンドの活動風景を思い出す。

 が――
 思い出すことは、それだけではない。

     *

 小学6年になって最初の日――
 転校生がやってきた。

 女の子だ。
 ミカさんという。

 自己紹介は緊張した面持ちだった。
 言葉数の少ない自己紹介だった。

 担任のヤマダ先生は、僕の隣に座るように指示を出す。
 ミカさんは、いわれた通りに僕の隣の席に座った。

 家に帰って、このことを父に話したら、

 ――その子の顔ばかりみてたんじゃないか?

 と笑われた。

 ――ちげーよ!

 と反論したが、多分、父は正しかったと思う。

 だって――
 僕は今もミカさんのことを忘れていない。

     *

 ミカさんとは、すぐに仲良くなった。
 一緒にいるのが楽しくなった。

 気付いたときは――
 クラスの誰よりも可愛らしい女の子だと感じていた。

 たちまち――
 級友たちに冷やかされるようになった。

 うまく対処できなかった。
 自覚がなかった。
 下手に反論していたような気がする。

 自分の気持ちを素直に認めてやればよかった。
 それができなかった。

 一学期が終わり、席替えになった。
 ミカさんと席が離れた。

 途端、僕らは話さなくなった。
 できなくなった。

 あれほど仲良く話ができたのは――
 席が隣同士だったからである。
 離れてしまえば、話すことすら、ままならない――そういう関係だった。

 が、目だけは合った。
 妙によく合った。

 だから、勘違いをした。
(向こうも僕が好きに違いない!)

 目が合ったのは必然だった。
 僕は、いつもミカさんの目を追っていた。

 だから――
 ミカさんのほうが、僕をどう思っていたかは、わからない。

 この勘違いを盾に、僕は突進すれば良かったはずである。
 が、それをしなかった。

 できなかった。
 その勇気がもてなかった。

 月日だけが流れていった。

     *

 小学校を卒業する日――
 ミカさんは、いつになく僕の方をみた。

 僕が視線を合わせると、いつもは視線をそらす。
 が、あの日だけは、視線をそらさなかった。

 今なら、わかる気がする。

 ――私が気になるなら、今日こそ想いを打ち明けてよ。

 そういっていたのだと思う。

 が、僕は打ち明けなかった。
 同じ中学に進むことはわかっていた。
(焦ることはない)
 そう考えたのだと思う。

 真相は違った。
 やはり、勇気をもてなかっただけである。

 再び、月日が流れた。

     *

 中学では、ついに一度も同じクラスになることはなかった。

 なのに――
 同じクラスになって、また席が隣になればいいと思っていた。
 奇跡を期待していたことになる。

 奇跡なんて、起こらない。

 けれど――
 あい変わらず、よく目は合った。

 集会のとき、休み時間、部活の日、休日の日――
 よく目があった。
 だから、
(向こうも、まだ、その気がある!)
 と思った。

 いつか打ち明けようと、漠然とは思っていたはずである。
 が、どのように打ち明ければ良いものか、見当がつかなかった。

 時間だけが流れていった。

     *

 中学2年か3年のとき――
 ミカさんは学校に来なくなる。
 不登校である。

 ミカさんの担任の先生は、困っていた。

 ――最近、学校に来てないんだけど、何かきいてない?

 と、訊いて回っていた。
 あるとき、わざわざ僕らのクラスにやってきて、僕の席の近くの女の子たちに訊いていた。

 まさか、僕にきかせるためではあるまい。

 が、
(まさか――)
 と思った。

     *

 中学を卒業する日――
 僕は、ミカさんのことは覚えていない。
 卒業式には来ていたと思う。

 当時の僕は、ミカさんに気が回るような状況ではなかった。
 父の転勤が決まり、数日後に遠くへ引っ越すことになっていた。

 中学を卒業し、しばらくが経って、卒業アルバムをめくったら――
 そこにミカさんが写っていた。
 見慣れない顔付きのミカさんだった。

 あい変わらず可愛らしいとは思ったが――
 そこに写っていたミカさんは、僕の知っているミカさんではなかった。

 僕は、自分の想いが終わったことを知った。
 打ち明けなかったことを、とくに後悔はしていなかった。

     *

 その後のミカさんを、僕は知らない。
 風の便りにも、きいていない。

 結婚をしておられるのか、お子さんがおられるのか、まだ生きておられるのか――
 何もきいていない。

 ときどき、夢に出てくる。
 小学6年生のミカさんが、である。

 今も可愛らしい。

     *

 その小学6年生のミカさんが――
 修学旅行のバスの中で、カラオケで歌ったのが――

 ――『天使のウインク』

 だった。

 大人しい女の子だ。
 数年後には不登校になってしまうような女の子である。

 けれど――
 あのときのミカさんは、朗らかだった。

 小さい顔が光り輝いていた。
 みんなの喝采を浴びていた。

 何より、歌が巧かった。

 あれから20年が経って――
 松田聖子さんや尾崎亜美さんが歌う『天使のウインク』を耳にする度に、思い出すのはミカさんである。
 ミカさんの歌声である。

 松田聖子さんとも、尾崎亜美さんとも違う――
 ミカさんの歌声である。

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