1990年のニッカ・ウイスキー「オールモルト」のCMで、女優の中野良子さんが名台詞を口にした。
――女房よわせて、どうするつもり?
である。
それから15年後の今年――
やはり女優の石田ゆり子さんによって名台詞はよみがえった。
2005年3月26日から放映されたニッカ・ウイスキー「ニュー・オールモルト」のテレビCMである。
画面の中央に石田さんが立っている。
ちょっと、はにかんだ様子――
場所は、おそらく夫婦の寝室――もしくは旅先のホテル――
石田さんは、ごく普通の部屋着で、グラスを片手に、こちらを向き、
――女房よわせて、どうするつもり?
と笑う。
艶やかな笑みである。
石田さんは、ディレクターから、
――カメラを夫だと思って一人芝居をして欲しい。
と指示されたという。
つまり、画面は男性の視点である。
このCMのバックに流れるのが、スターダスト・レビュー(STARDAST REVUE)の『木蘭の涙』(作詞・山田ひろし、1993年)である。
画面の雰囲気と楽曲のメロディとが、よくマッチしている。
2005年4月初旬現在、概ね好評のようだ。
が――
『木蘭の涙』の詞を、じっくりとよむとき、
(あれ?)
と思う。
詞は画面の雰囲気とマッチしていない。
『木蘭の涙』は悲しみの唄だ。
大切な人を亡くした悲しみが基調になっている。
亡くなった「あなた」に「わたし」が語りかける体裁で、永遠の別離のやり切れなさを痛感させる物語となっている。
もちろん、「あなた」は夫か妻か、であろう。
普通に考えれば夫である。夫を「あなた」と呼ぶ妻は少なくないが、妻を「あなた」と呼ぶ夫は少なかろう。
この時点で、既にミスマッチがある。
CMの画面は夫の視点なのに、『木蘭の涙』の詞は妻の視点である。
しかも、妻は元気にウイスキーを飲んでいる。
『木蘭の涙』は哀しい、哀しい死別の唄なのに……。
このギャップは何なのか?
理由は幾つか考えられる。
一つは『木蘭の涙』の起用が、
――何となく……。
であった、ということ――
詞の意味は吟味せず、メロディや曲調を考慮し、起用された。
このような起用は、10年前の僕なら激怒モノである。
昔の僕は、こういう「いい加減」なマッチングが大嫌いであった。
が、今は映像のことを多少は知っている。
テレビCMを含む映像作品の場合、優先されるのは絵であり、次いで音である。
この考えに照らせば、僕の指摘するミスマッチなど大した問題ではない。
とはいえ、それではつまらないから、もう一歩、踏み込んでみよう。
実は『木蘭の涙』が、詞の意味をよく吟味された上で起用されたと想像したら、どうか?
画面の視点は、あくまで夫である。
石田ゆり子さん演じる妻――の夫である。
そして、逝ったのは夫――
『木蘭の涙』は、夫との死別を哀しむ妻の祈りの声でもある。
この二点のギャップを、どう整合的に解釈するか?
思うに――
画面の中の石田さんは、夫の追憶の中の妻である。
永遠の旅路に発つ直前の、夫の脳裏をよぎった瞬間の追憶である。
人は、亡くなるとき、聴覚が最期まで残るといわれる。
手足が動かせなくなって、視野が暗くなり、
――もう、おしまいか……。
と思ったときにでも、耳だけは生き残っている。
だから、人は、自分に下された医者の死亡宣告を、きいているかもしれない。
医者の声だけではない。妻のすすり泣く声、子らが医者に述べる礼の言葉――それら全てを、きいているかもしれない。
やがて――
そうした声もきこえなくなる。
永遠の静寂が訪れる――まさに、ちょうど、そのときに――夫の脳裏をよぎったのが、あの妻の顔ではなかったか?
――女房よわせて、どうするつもり?
と微笑する妻の無邪気な顔――
その顔は『木蘭の涙』が伝える押し殺した悲痛の叫びとは、あまりにも対照的な穏やかな微笑である。
だから――
柔和に笑う石田さんは、若かりし妻かもしれないし、つい去年の妻かもしれない。
それは、逝く夫が何歳かによる。
90歳の夫なら、満足の回想だろう。
40歳の夫なら、辛苦の諦観かもしれない。
そう思うとき、CMにかぶさる『木蘭の涙』が活きてくる。
十分に活きてくる。
わずか15秒のCMで、何とも壮大な物語が創成する。
*
実をいうと、10年前の僕は『木蘭の涙』が好きではなかった。
スターダスト・レビューは、二十歳の頃に付き合っていた彼女の好きなグループである。
その娘(こ)とは結局、一年半ほどで別れた。
『木蘭の涙』が、僕にとって今一つだったのは、多分そのせいである。
別の理由もある。
それは、
(人を殺せば良い詞になると思ってんじゃないの?)
という懐疑であった。
(人なんて、そんなに簡単には死なないんだからさ)
である。
――死別ではなく、失恋をテーマにするほうが、よりリアルな情感になる。
と、当時の僕は考えていた。
そんなことはない。
死別でもリアルである。
そもそも――
人は簡単に死ぬのだから――。
ちょっとしたことで死ぬのだから――。
そして――
今を生きる全員が、いつかは死ぬのである。
150年後には誰もいないのである。
『木蘭の涙』は死への理解によってリアルな情感を帯びる。
死への理解は、そのまま生への理解となる。
*
4年前に父が死んだ。
その後、最初に『木蘭の涙』を聴いたときに、真っ先に思い浮かべたのが母のことである。
僕は、母とは、うまくいっていない。
母は人間的には尊敬できないと思っている。
それでも母のことを真っ先に思い浮かべた。
死への理解は、そういう原始的レベルの情動を伴うのかもしれない。