第6話 国は人あってこそ


 さだまさしさんの『遥かなるクリスマス』は壮烈だ。
 悲壮ですらある。
 一人の男が、戦乱に明け暮れる世界の混迷を憂いつつ、結局は自分の日常の幸せを追求するしかないと決断する――そういう慟哭の葛藤が背景にある。

 男は、さださん自身かもしれない。

「慟哭の葛藤」と書いた。
 大げさだと笑うだろうか?

 実際に、さださんが、この唄を歌っているところをみれば、そうもいっていられないのではないか。
 映像でもいい。

 さださんは泣いている。
 世界の不幸と自身の不幸ならざるとの狭間に落ち込み、悶え、苦しんでいる。
 慟哭は、

 ――生きろ!

 のメッセージに集約された。
 男の妻に対する思い、子供に対する思い、なのだろうか。

 ――世界のことはいい。

 と、さださんは歌う。

 ――戦争が起きたっていい! 君だけが生き残ってくれれば、それでいい!

 のだと――

 ――公共心が欠落している。

 と詰るのは、たやすい。

 ――先の大戦で亡くなった人に失礼ではないか! つい60年前のことを、もう忘れたか!

 とか――

 しかし、待って欲しい。
 60年前の日中・太平洋戦争(大東亜戦争)で、いったい何人の日本男児の父母が、心の中で、そう叫んでいたことだろう。
 皆、心の内で個々に叫んでいた。
 だから、外には、きこえてこなかった。
 さださんのような慟哭が公にならなかったのは表層上のことである。

 人は、人の体は縛れても、心までは縛れない。
 おそらく、今日、政府の命令でイラクに派遣されている人々の心も、多分、その心は自由であるはずだ。

『遥かなるメリークリスマス』は2004年のNHK紅白歌合戦で披露された。

 ――あのNHKが?

 と驚いた向きは多かろう。
 さださんのようなスタンスを歯がゆく思う人たちはもちろん、さださんのメッセージに共感した人たちでさえも、等しく瞠目したと思われる。

 さださんのスタンスに嫌悪を示す人がある。
 国家という機能を重視する人々に多い。

 それでよい。
 さださんのスタンスに反対する人は、あっていい。

 ――自分勝手な俗物め!

 と罵詈雑言を浴びせるか?
 したければ、すればよい。
 さださんも、多分、先刻、承知の上だろう。

 どちらかが、どちらかを抑圧しなければよい。
 双方が自由にモノをいえる雰囲気が大切なのだ。

 ――では、お前はどうなのだ?

 と問う人があるかもしれない。

 ――こんな一文をサイトに掲載しているお前は!

 と――

 僕は、さださんに共感している。

 ――世界中が不幸でも自分たちさえ幸せなら、構うものか!

 と絶叫する、さださんに共感している。

 一度しかない人生である。
 イラクで戦渦に喘ぐ人たちの人生も一度きりだ。
 が、この現代日本という共同体の中で――キリスト教徒でもないのにクリスマスを勝手に祝ってしまう社会の中で――毎日を「ヌクヌク」と安寧に貪っている僕らだって、人生は一度きりだ。

 自分の生を精一杯に全うしない者に、他者の救済を語る資格はない。

 ――そうではない。

 と主張する人があるだろうか?
 他者の救済などではない。
 国のために戦うのは自分たちのためなのだ、と――

 昨今のアメリカ追随政策も、先の大戦への参戦も、すべて自分たちの国を守るためのものなのだ、と――

 たしかに、そうかもしれない。
 国を守るのは大切なことだ。
 国は人々の生命と財産とを守る。そのために国は生まれた。

 だから、「国を愛する」とは、その国を形作る人々を愛するということである。

 国は人ではない。
 システムである。いってみれば虚構である。
 だから、例えば、愛の対象ではあり得ない。
 愛の対象は通常、人だ。

「国を愛する」が比喩表現であるということ――
 これを僕らは厳に肝に銘じておかなくてはならない。
 システムという虚構を守るために人間が犠牲になることは、本末転倒なのである。

 現実が難しいのは、わかる。
 だから、さださんも、ご自分の慟哭を、慟哭のままで世に問うておられる。

 しかし、基本を外してはならない。
 さださんが「守りたい!」と叫んだ対象――すなわち人――があってこそ、国は国たり得る。

 このことを、きちんと弁えていれば、『遥かなるクリスマス』は、実は、ある種の「愛国的」な様相すら帯びる。
 そのことを、全ての人におわかり頂くのは、やはり無理なのだろうか?

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