2004年9月――『マル太のラプソディ・ラプソディ』の連載を本格的に再開したいと思う。
途中、実に9年ものブランクがあった。
再開といっても、前回までは、曲がりなりにも紙面上の連載だったのが、今回からは、ウエブサイト上の連載である。装いは、だいぶ異なる。
「曲がりなりにも」と断ったのは、当時の連載の場が、身内だけに閉じられた――高校の同期卒業生たちの有志による――ごく内輪向けの会報誌だったからである。
そんな連載を、いまになって再開したいと思ったのは、当時の僕が、この企画に相当の思い入れをしていたにも関わらず、編集担当者のやむを得ぬ事情で、会報誌の発行自体が打ち切りになってしまったことによる。
そうした終わり方を、この9年間、ずっと寂しく思ってきた。少しでもブランクが埋められればと思っている。
ただし、9年前のマル太と、いまのマル太とでは、スタンスが違う。
例えば、いま、第4話『結婚について』を振り返ってみると、
(――おいおい。よく、こんなことを、いえるな……)
と、目を被いたくなる箇所が、たくさん目に付く。
ひと言でいえば、
――9年前のマル太は若かった。
のである。
とりわけ、第4話の結び方は酷い。
曰く「ひとりの男」に「夢と未来をさら」われていった……。
――別に、ええやないか。婚約しぃはったって……。
と、突っ込みたくなる(うん? この大阪弁は、あってるかな?)
実をいうと、第4話『結婚について』が、くだんの会報誌に載ったとき、僕にも待望の彼女ができていた。「独り者」だったのは、原稿を執筆していた頃の話である。
彼女とは、その後1年で別れ、さらに、その後2年で別の彼女と出逢い、その彼女とは、その後4年で別れ、現在に至っている。
もちろん、当時のマル太は、その後の自分の軌跡を知らない。
*
自分でいうのも何だが、9年前のマル太は、ひねくれていた。
平松愛理さんを題材とし、『結婚について』と銘打っておきながら、なぜ、この作品を選ばなかったのだろう?
――『部屋とYシャツと私』である。
多分、9年前のマル太は、この詞の表層に、とらわれていた。
無理もない。この詞の中で、いかにも優等生的な可愛らしさを演出している「私」は、例えば、第4話で扱った『GIRLFRIEND』の「私」よりも、つまらない。
また、当時、『部屋とYシャツと私』が「平松愛理」ブランドと、ほぼ等価であったということも、重要な要因であった。
9年前のマル太は、平松愛理さんの他の唄にも、いたく感化されていた。
だから、
(――あれだけが「平松愛理」じゃないんだ!)
と、声を大にして、叫びたかったのだと思う。
――苦労知らずのお嬢様が三つの頃からピアノを習い、そのまま音楽を作って歌っています。
それが、当時の平松愛理さんの大方の印象であろう。
ちなみに、これは、ご本人の弁である(平松愛理著『部屋とYシャツと「私の真実」』集英社be文庫)
ところが、実際の平松さんは、多分、そういう人ではない。
大学を卒業後、すぐにデビューが決まったのに、プロデューサーと意見があわず、自ら降板を願い出、チャンスを棒に振る。
その後の下積み時代は、音楽へのこだわりや愛着だけで、凌いだ。
やっとの思いでデビューを果たしたと思ったら、持病の子宮内膜症が激化する。激しい痛みに耐えながらの音楽活動となった。
当時、『部屋とYシャツと私』を歌う平松さんが、何となくホンワカした印象を与えていたのは、痛み止めの薬を飲んでいたからだという――笑うに笑えないご冗談もある。
そして、待望のお子さんに恵まれ、子宮摘出術という子宮内膜症の根治術を受け、ようやく長い病魔との苦闘にも一息つけると思われた矢先に、乳がんがみつかる――
壮絶な前半生であった。
このことを以て、単純に、
「だから、平松さんは人間的に強い――」
とか、
「尊敬できる――」
とか、
「素晴らしい――」
とかいうことを、わざわざ、いおうとは思わない。
そんなコメントは野暮の極みであろう。
当たり前ではないか……そんなことは――
僕が、平松愛理さんの作品や生き方から痛感したことは、僕自身のことであった。
人間の考えることは、所詮、自分の主観というフィルターを通してしか、顕在しない――ということである。
9年前のマル太は、『部屋とYシャツと私』以外の唄に、平松さんの個性の核のようなものを感じていた。だから、『部屋とYシャツと私』だけが「平松愛理」でないと主張することに、拘泥していた。
しかし、実は、そうした主張は「9年前」の「僕」という主観性が、絡めとった虚構の産物でしかなかった事実――そこに僕の衝撃があった。
例えば、当時の僕は、平松さんが闘病中だったという事実を、まったく感知できなかった。
ご本人が、ひた隠しにされていたのだから、感知できなくて当たり前なのだが、……感知できなかった。
3、4年前のことである。とある人から、
――人間の考えることなんて、つまらないことだけだ。
と、いわれたことがある。
そのときの僕は強く反発した。
――そんなことはない。人間の創造性には無限の可能性がある。
そう、信じて疑わなかった。
しかし、いまの僕は、そうした信念に確固たる根拠を持てないでいる。
人間の考えることには、必ずや、その人間の主観が浸潤する。安易に主観が浸潤すれば、人間の考えることは容易に「つまらない」ものに成り下がる。
これは経験的な事実である。少なくとも、僕自身の経験では、そうである。
平松愛理さんの一連のエピソードは、その事実を僕に突き付けた。
そういう想いで『部屋とYシャツと私』をみたときに、この詞の物語性は、慎ましく輝く。
この詞は、ご本人の新婚気分を歌ったものではない。病気の深刻さのために、半ば結婚を諦め、それでも結婚への断ちがたい惜別の思いを込め、書いた――その願望の唄が『部屋とYシャツと私』であった。
願望の唄――
そういう目で『部屋とYシャツと私』の詞をみると、はっきりいって、ありふれているのである。
言葉の技巧に新しい点はあるけれども、唄としての総合力は、どうか? 人の心を動かすレベルに達しているかといえば、そうではない。
――人間の考えることなんて、つまらないことだけだ。
の範疇に、十分に収まってしまう程度である。
にもかかわらず、この唄が多くの人々に支持され、いまも支持され続けているのは、なぜなのか?
それは、やはり、この詞に中身があるからなのだと思う。
願望の唄を「願望の唄」と割り切って書いた作者の純粋さ、切迫さ、強さ、切なさ――そういった気持ちに実体があったから、人の心を打った。
――いいじゃないか、人間の考えることが、つまらなくても……。
――つまらないとか、つまらなくないとか、考えているから、つまらなくなるんだよ。
要は、そういうことでは、なかったか?
*
乳がんを患い、手術を受けられた。術後の痛みに苦しみ、神経症も患ってしまわれた。
こうしているいまも、おそらく、がんの再発の恐怖と闘っておられる。
それゆえに、平松さんは、生の何たるか、あるいは、死の何たるかを大事に生きておられるだろう。
生死の問題は、本当は、僕ら全員の問題である。なぜなら、僕らは、いずれ、皆、死ぬのだから――そして、いま、僕らは、皆、生きているのだから――
著書の中で、乳がんをカミングアウトした後、人の視線を避けるようになったと述懐された。
「――ほら、がんの人だよ」
と、外野から心ない好奇の視線が向けられた。
――私の名前は、がんじゃない……
そんな当たり前のことも、わからない。
人は哀しい存在だ。
通常、人は自分の生死を、自分の問題として切実にとらえることは、できない。
僕とて、そうである。
平松さんのご病気を知ったのは一、二年前のこと――以後、僕は明らかに、その情報にとらわれすぎていた。
還暦前の父を大腸がんで亡くしている。
通り一遍の思い込みが、いかに本人や家族を苦しめるか、僕には、わかっているはずだった。
でも、わかっていなかった。
結局、その程度だったのである、僕の想像力というものは……。
いまのマル太は、所詮、自分は「その程度」なのだという諦観を大事にしたい。
諦観――本当は、これを「達観」と呼びたいのだが、まだ、その域には達していない。だから、ひとまず「諦観」としておく。
この諦観を、肯定的にみるのか、否定的にみるのか――
それが、9年前のマル太と、いまのマル太との違いである。
9年のブランクを経て、同じ平松愛理さんの詞を連続で取り上げたのは、そうした理由による。