やはり、結婚とは、一人の女性の将来が、男によって奪いさられていくことなんだろうか?
だとしたら、何だか、ひどく淋しい話だけれど、男の僕としては、
(何もいえないなあ……)
という気がする。
男がどうの、女がどうの、という前に、まず、結婚って何だろうか?
作家の曽野綾子さんは、結婚とは他人同士が擬似肉親になることだと、いった(曽野綾子著『夫婦、この不思議な関係』PHP文庫)
ちょっと長いが、引用してしまおう。
――夫婦というものはおかしなものである。極限の愛から一方の裏切りによって極限の憎しみへ、極限の一体性から死別によって極限の喪失感へ、完全な他人から長い年月の間に擬似肉親へ、と夫婦の心理の変化の振幅は非常に大きい。
……だそうである。
結婚未経験の若造で、二十歳そこらの僕には(1995年当時)
「はあ、そうなんですか……」
という他はない。
とはいえ、
(だてに、20年も生きてないぞ)
というべきか、
(少しは人生を経験しているぞ)
というべきか――
中学・高校時代の思春期真っ只中に抱いていた結婚観――それは、やたらと甘ったるくて、うらうらと輝いていたけれども――そういった幻想とは、きっぱり、おさらばできているつもりである。
かなうことなら、結婚はしたくない。
自分を産んだ親や、血を分けた兄弟姉妹になら、たとえ、しょうもないことで邪魔されたとしても、そのときはガミガミといいはするだろうが、結局のところ、
(しゃあない……)
と、締めることができる。つまり、束縛されることに寛容になれる。
しかし、それが、まったくの他人となると、どうだろうか?
そこまで惚れ込める異性を、人は、みつけることが、できるものなのだろうか?
曽野綾子さんがいうように、所詮、結婚とは、それまで一緒に暮らしてきた肉親を差し置き、赤の他人と一緒になることをいう。
だから、結婚後は、昨日までは赤の他人だった人物に、物理的にも、精神的にも、経済的にも、社会的にも束縛される。
もう少し綺麗な言葉でいえば、
――お互いに配慮し合う関係になる。
ということだ。
とはいえ、これは、落ち着いて考えてみると、すさまじい負担ではないか?
僕に、ちゃんと夫としての責務を果たすことができるだろうか?
あまり自信はない。
でも、やっぱり、結婚しないわけには、いかないだろう。
僕は、わりと小市民だから、世間体というものを気にする。みんながやっていることを、一人だけしないでいると、何かしらのペナルティーを食らうに違いない――などと、つい考えてしまう。
さらにいえば、僕個人としては、非常に子供が欲しい。子供が欲しい以上、結婚しないわけにはいかない。
だから、僕は、いつか結婚すると思う。
もちろん、実際に相手がみつかるかどうかは、別問題だろうけど……。
結婚する以上、イヤな結婚はしたくない。
納得のいく人と、ここぞというときに、結婚したい。結婚後に迫りくるであろう「負担」を、是非とも共有したいと思えるようなパートナーと、絶好のタイミングで、一緒になりたい。
不思議なもので、こうして一旦、覚悟を決めると、逆に結婚も面白そうだなと思えることがある。
たとえは悪いが、難しい数学の問題にぶつかったときに感じる高揚感と似ている。
そんなにやっかいなものなら、ひとつチャレンジしてやろうじゃないの――せいぜい頑張って、何とか満足のいくものに仕上げてみようじゃないか――
ただし、大学受験のときみたいに、満点を狙うと、ろくなことはないだろうけれど……。
夫婦は、あくまで他人である。
でも、こうして絆を深めていけば、いつかは、肉親のようなものになる。曽野綾子さんが「疑似肉親」と称したものも、おそらく、そうした「肉親ならずして肉親なるもの」である。
的を射た表現だと思う。
さて――
平松愛理さんの『GIRLFRIEND』は、結婚の、必ずしも薔薇色でない部分を、見事に描いている。
ここでいう「GIRLFRIEND」は、いわゆる「ガールフレンド」ではなく「女友達」くらいの意だろう。
……でないと、文脈が通らない。
平松さんは、詩に豊富な物語性を込める作風で知られたシンガーソングライターである。
だから、例えば、作詞に際し、「素の自分」を正面に据え、実体験を交え、自我の葛藤を暗示的に描いていくというタイプの作家さんではない。
物語は、あくまで、リアリティある詞を書くための手段だと、平松さんはいう。つまり、ご自分の作風を鑑みるに、詞に物語を込めるほうが、人を、より惹き付けると、お考えのようだ。
もちろん、人の内面を突く、という詞の原則は、大切にする人である。
事実、平松さんの詞には、度々、ドキリとさせられる。
僕は、やはり男だからなのか、この詞――『GIRLFRIEND』をきくまで、女性が友人の結婚に対し、このような感慨を噛み締めることがあるとは、夢にも思わなかった。
どうやら、女性にとって、同性の友人の結婚は、何かしらの嫉みを生んでしまうものらしい。
もちろん、男とて、事情は同じだろう。
結婚の宿命とでも呼んでおくべきだろうか?
一昨年(1993年)の予備校生活の中で、結婚したばかりの友人というのに恵まれた。
彼の話をきいていると、ちょうど、『GIRLFRIEND』の中の「私」と同じような気分になった。
その彼が、自分にとって、まったく未知で困難な航海に乗り出しているということへの憧れ、気遣い、敬意、羨望、そして、自身の孤独感――
そうした感情が、互いにドロドロと溶け合い、妬みに化けていったのを覚えている。
あれは、まさしく玉虫色の心情だった。
きっと、『GIRLFRIEND』の中の「私」にチャネリングした平松さんも、同じ色だったに違いない。
むろん、それは、必ずしも平松さんの実体験ではなかったろう。
けれど、そんな詞をかく平松さんに、当時の僕は、複雑な親近感を覚えたものだった。
それが一昨年(1993年)のこと――
その後、平松さんは、どうなったであろうか?
ちなみに、こちらは、いまも独り者――
結婚はもちろん、彼女すら、できていない。
そして、あちらは、
――ある男によって将来を奪いさられていった。
といえば大げさか――
1994年、春――
平松愛理さんの婚約は、発表されている。