第3話 やっぱり女性は幻想美?


 僕が東京にいた頃(1992年〜1993年)妹が僕の部屋に遊びに来て、なんぞ掘出物はないかと、カセットテープ入れを漁ったことがあった。
 漁られるほうとしては、あまりいい気分はしないのだが、立場が変われば、僕も同じことをするので、お互い様である。

 やがて、妹は一つのテープを取り出し、ラジカセにかけた。
 何曲かきいているうちに、上田正樹さんの『わがまま』が流れてくる。
 この詞は、不倫をしているらしい女性が、

 ――全てを承知で抱かれたのは私のわがままだから、無理に「愛してる」などといわなくていい。

 と相手の男性に訴えるもの――

「兄貴、やめようや」
 と、妹は苦笑しつつも、うんざりしたようにいった。

 妹の気持ちは、わからないでもない。
 あまりにも男に都合の良すぎる女性像だと、反発したのだろう。

 ところが、僕は、
「まだ、この詞の良さがわからないかあ」
 などと、いかにも誤解を招く台詞を口にする。

 実は、僕も最初は同じ感想を持った。

 ――けっ! なあんだこれ。もう少しリアリティのある詞が書けないものかね云々。

 その見方が、がらりと変わったのは、ささいなことがきっかけだった。
 とある歌番組を、ながらでみていると、上田正樹さんが『わがまま』を歌うという。
(ふーうん)
 と、思いながら、画面をみていると、ステージの上では、サングラスをかけ、ダンディズムを気取ったオジさんが、いかにもの佇まいで立っている。
 やがて、イントロが流れ始め、司会の女性がコメントを挿んだ。
「自分の理想の女性像を詞に書きましたと言う上田正樹さん……」
 合点がいったのは、その刹那だった。

 そうか!
 なるほど!
 この歌は、何も世の女性たちに、かくあるべしと説教をたれているわけじゃない。
 男のどしがたい夢を、ただ素直に表現しただけじゃないか?
 あんな風情で歌うものだから、すっかり騙されてしまったよ……。

 というわけである。

 詞の基本原則が、人間の内面を照らし出すことだとすると、男性が、女性の心理を想像し(ときに創造し)女性の内面を描くことは、一見、その基本原則に外れるような気がする。
 たしかに、演歌の詞などをきいていると、
(いかにも、男が勝手に書きました)
 という作品は、多い。

 某TVトーク番組で、
「何であんな詞を書くのかしら? あんな女、いるわけないじゃない。バカらしい!」
 といった女性学者(たしか、田嶋陽子さんだった)の弁は、傾聴に値する。
 しかし、やはり学者の吉村作治さんが、即座に、こう反論した。
「いませんよ! だから書くんですよ」
 と。

 まさに、至言だった。

 この世に実在し得ない女性像だからこそ、詞に描く――そういう発想はあってもよい。

 経験すれば、わかることだけれど、例えば、自分の理想の異性像を言葉にするということは結構、恥ずかしいことである。
 自分の心の中だけにあるものを、お披露目しようというのだ。気恥ずかしいのは当たり前――

 ということは、そのように自分勝手な異性像を言葉で具現化するということは、取りも直さず、自分の内面を暴露するということになりはすまいか?
 つまり、こうした詞であっても、ちゃんと人間の内面を描いているということになりはすまいか、ということである。
 この場合も、ある意味、自分の内面をターゲットにしているわけである。ただ、やり方がストレートじゃないだけだ。

 だから、世のフェミニストの皆さん――
 恨み節をお嫌いになる分には構いませんが、排除はしないでください。あれもやっぱり詞の一種ですから――
 ちなみに、僕は、個人的には、それほど好きではありませんけど……。

 さて、小椋佳さんの『憧れ遊び』をみてみよう。
 ふた昔ほど前、日本テレビ系列の年末時代劇『忠臣蔵』で、主題歌となった。もしかしたら、覚えておられる方もあるかと思う。

 この詞は、例えば、その翌年の同時代劇『白虎隊』の主題歌『愛しき日々』とは違い、ドラマとのリンクに成功したとはいいがたい。
 ところが、それが、かえって詞としての完成度を高める結果となった。

 修辞が見事である。百合の花の静謐と胸に秘めた想いの激しさとのコントラストや、男の永遠の謎たる女心を海に譬え、それを「深い」と嘆息してみせるところなど、ちょっと余人には真似できない技巧という気がする。

 何より小椋さんのスタンスが素晴らしい。
 もちろん、この詞も本質的には演歌の恨み節と変わらない。中年男のどうしようもなく甘ちゃんな心情を歌ったものである。
 しかし、小椋さんは語り部の「どうしようもなく甘ちゃんな」ところまでを見事に描き込んでいる。

 冒頭の語り口が秀逸だ。
 語り部は、

 ――「きみは花のようだ」と譬えたら彼女は笑うだろうか?

 と自問するのである。
 決して、実際に譬えるところまでは、いかない。

 この自問形式が詞の叙情性を高めている。

 作者は、自分の空想の中に一人の女性を住まわせ、その女性を、自分に都合良く美化して楽しんでいる。それを称し「憧れ遊び」と名付けているわけだ。
 したがって、この詞には、そうした自分のどしがたい欲望を揶揄するような調子も含まれている。

 いいと思わない?
 こういうの――

 こういう気持ち、男なら誰にでも、いや女の人にだって、一度くらいはあるはず。それを過不足なく歌い込んだ小椋佳さんは、やはり、
(お見事!)
 としか、いいようがない。
 もっとも、ちょっとオジさん趣味が過ぎるかなという気はするけれど……。
 そこがいいんだけどね。

 それにしても、男というものは、どうも、異性に夢をふっかけたがる生き物らしい。
 女性は、そういうことは、あまりしないらしいんだよね。
 むしろ、自分に夢をふっかけたりするとか、しないとか……。
 男も女も、みんな女に夢をふっかけているんだから、やっぱり、男と女とでは、女のほうに、より絶対的な幻想美があるのだろうか?

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