第2話 詩人の業


 1、2年前(1993-1994年)のこと――
 某ベテラン女性シンガーソングライターが、新聞のインタビューに答えて、こう、いっていたのを思い出す。
「ドラマとのリンクなしでも、売れる歌をつくっていきたい」
 歌い手としての自負だったのだろう。

 いうまでもなく、昨今のヒットナンバーには、やけにTVドラマの主題歌が多い。
 別に、悪いことじゃないんだろうけど、やっぱり、どこか物足りない。歌が独り立ちしていないように思えてしまうからだ。

 実際には、TVドラマの主題歌をきき、例えば、そのドラマの筋が頭を駆け巡ってしょうがない――なんてことは、意外と少ないんだけど、じゃあ、なんで、その唄に興味をもったのかといえば、

 ――あのドラマの主題歌だから。

 ってな、わけになる。

 これは、少なくとも歌の作り手としては、面白くない状況だろう。
 たとえ、TVドラマを歌の宣伝だと割り切ったところで……だ。

 こうした状況の原因は、何なのか?
 答えは、ここ数年のヒットナンバーの詞をみれば、ピンとくる。

 ――あまりにもひどい詞が多い。
 特に男が作ったやつ――

 ここでいう「ひどい詞」とは、単に、さわりのいい言葉をつなげただけのものを指す。
 もちろん、作り手の気持ちとしては、メロディやサウンドで勝負した――ということなのだろうけれど、唄である以上、もう少しリリックスにも気を配って欲しい。
 その唄に固有のメッセージが感じとれないようでは、TVドラマのバイタリティとセットにされても仕方がないではないか。

 あるいは、詞のエッセンスを欠いたために、凄みのない唄になってしまった、という例が、幾つかある。
 例えば、高橋ジョージさんの『ロード』――

 ――何でもないことが幸せだった。

 と振り返る一節で一世を風靡した――あの唄である。

 詞自体は悪くない。物語性豊かな独特の世界を築いているといってよい。
 しかし、そこで語られる物語がフィクションでないと知ったとき、僕は、少なからず失望した。

 ファンの少女が、高橋ジョージさんのところへ手紙を送ったという。

 ――三十歳の男性との間に子供ができたのだが、前々から子供はいらないといわれている。打ち明けるべきかどうか相談にのってほしい。

 そういった文面だった。
 ところが、少女は出産を目前に、事故で死んでしまう。

 高橋さんは、
「生老病死と人間の業について考えさせられた衝撃的な出来事」
 と、述べている。
 そして、『ロード』の唄をつくったのだ、と。

 もし、この詞が、一から創られた虚構であったのなら、

 ――何でもないことが……。

 で、十分かもしれない。
 むしろ、よくぞ、ここまで物語を紡いだものよと、絶賛されてしかるべきであろう。
 しかし、これが虚構ではなく、現実であるのなら、当事者でもない人に、

 ――何でもないことが……。

 といわれても、いま一つ、迫力が足らない。
 その「衝撃的な出来事」を通し、人の心の内面に、もっと深く迫ることができたのではなかったか?

「衝撃的な出来事」を、いかにも物語っぽく書いたのが、まずかった。
 そこに「自分」の視点を挟まず、安易に、その少女の恋人の視点を借りてきたことが、詞の迫力不足に繋がってしまっている。
 たしかに、この男性は、少女の死に直面し、
(何でもないことが……)
 と、思ったかもしれない。
 でも、第三者に、その言葉を語る資格はなかった。高橋さんは、もっと別の角度からこの事件を扱うべきだったのだ。

 そういう意味で、この『ロード』は失敗作といわざるを得ない。
 誰だって、このような「衝撃的な出来事」に接すれば、ある程度の綺麗事は綴れるものである。それだけでは人の心は動かない。
 もちろん、この歌が、詞以外の点では、十分につくり込まれていることを、認めるにせよ……。

 一般に、男性の作詞家たちは、どういうわけか、格好の良い詞に走る傾向にある。
 しかし、女性の作詞家たちの多くは、違う。ちゃんと「自分」というものが入っている。

 例えば、永井真理子さんの『Mariko』をみるといい。
 飾らない言葉で、自我の内情を見事に描いている。しかも、自我の独立性を、さり気なく示している。
 自分で自分の名を口ずさむことによって……。

 その言葉に万感の思いがこもる。

 一昨年(1993年)のことだったか。永井真里子さんは、それまでの活動方式を大きく変更した。ある特定のバンドと契約を結び、それまで永井さんに膨大な唄を提供してきたライターたちと、事実上、縁を切った。
 その方針を表明した頃、永井さんは、雑誌のインタビューに答えていった。
「私がお世話になった作曲家、作詞家の皆さんの名前を一人ひとり挙げて、手紙に書いてきたファンもいました」

 たしかに、僕も以前の永井さんの歌風は好きだった。
 正直、なぜ「恩知らず」の中傷のリスクをとってまで、方針を転換する必要があったのか、疑問だった。

 しかし、『Mariko』の詞を何度もきいているうちに、おぼろげながらも、事情が推測できるようになった。
 そして、いつしか、この路線変更にも、率直に拍手を贈ることができるようになった。

 ――自分の夢を信じてみようと思う。だから、私のことをみつめていてほしい。

 と永井さんは語る。

 多分、永井さんは世間体よりも自分のこだわりを選んだ。その後も末永く自分の活動を維持するためには、どうしても譲れない一線だったと推測する。
 自活のための、いわば捨て身の転身であった。得るものと引き換えに、失うものも大きい。
 凡百のクリエイターには、なかなか、できる決断ではない。

 こういう詞を指して「格好の良い詞」という。

 勘違いしないで欲しい。
 詞にフィクションを取り入れるべきでないと、いっているのではない。大いに取り入れて結構――

 しかし、詞は小説ではない。所詮、小説の潤沢な創造性には、かなわない。

 詞で、人を感動させようと思ったら、人間の内面を鋭く描かないと駄目だ。
 そして、自分以外の人間の内面を観察することが不可能な以上、自分の内面をターゲットにせざるを得ない。
 これが詩人の「業」である。
 優れた詞を書くには、こうした詩人の「業」に真正面から挑む覚悟がいる。

 逆に、そういう覚悟の人が増えれば、TVドラマとのリンクなしでも十分に売れる歌が増えるのではないだろうか?
 もちろん、僕たち受け手にも、それなりに高いレベルが要求されるだろうけれど……。

 やっぱり、詞は自分の内面を突かなきゃ……。

 ということは、男が女の心理を一人称で歌うのは、もっての他ということになる。

 じゃあ、何で「演歌の恨みぶし」なんてものが、世に認められているのだろう?
 ああした詞は、男性が女性の心理を勝手に想像して歌ったものだ。
 すると、あれは全部、紛い物なのだろうか?

 いえいえ。
 原則に例外はつきもの――
 次稿では、その例外について、語らせてもらおう。

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