2004年8月25日――
日本プロ野球界は、歴史的転換期に立った。
アテネ・オリンピックの野球競技に、全球団から主要選手を派遣し、金メダルの獲得を狙ったが、銅メダルに終わったのである。
日本プロ野球界が、長嶋茂雄というビッグネームを監督にたて、アテネ・オリンピックに「ドリームチーム」を派遣したことは、十分に画期的であったといってよい。
今回、日本のプロ野球関係者が、こうした手段に出た理由は幾つかある。
最も重要な理由は、凋落する野球人気に歯止めをかけ、かつての野球人気を取り戻し、適うなら、昔日を凌駕する野球文化の興隆を目指すというものだ。
アテネ・オリンピックの日本代表チームは、日本のプロ野球ファンだけでなく、世界の野球関係者を唸らせた。
その功績は評価ができる。
しかし、幾つかの不徹底――例えば、代表チームの編成が「一球団につき選手二人まで」という条件下であったり、スコアラーやトレーナーなどのチーム帯同スタッフが全員アマチュア野球出身であったり、大会前に監督が病で倒れたにも関わらず経験豊富な代行監督を置かなかったりした点は、残念であった。
その結果、日本代表チームは、格下とみられていたオーストラリア代表チームに連敗するなどの失態を演じ、確実視されていた金メダルに手が届かなかったと、結論付けてよいだろう。
――4年後の北京オリンピックに向けて、また、頑張れ。
という声をきく。
この悔しさをバネに、また、オリンピックの舞台で躍動する日本代表チームをみたい――そういうファンの期待の声であろう。
しかし、僕には、その「次のオリンピックで」というスローガンが、いま一つ、精彩を欠いているように思える。
もともと、オリンピックの野球競技には「お祭り」の印象が拭えなかった。それは、日本のプロ野球界が、主要選手を派遣するようになっても、かわらなかった。
もちろん、派遣された選手たちは真剣にやっている。通常のレギュラー・シーズンでは考えられないような熱意、集中力を感じる。
しかし、それでも、オリンピックの野球競技は、一種のオールスター・ゲームに思えてならない。
僕には、オリンピックが真の野球強者を決める舞台には、どうしても、みえないのだ。
そもそも、オリンピックの野球競技に違和感を覚えていた。その違和感は、あまりにも曖昧模糊としていて、何に由来するものなのかわからなかった。
――が、2004年のアテネ・オリンピックを観戦し終えたいまなら、少しは具体的に表現できる気がする。
出発点は、次のような問題提起であった。
すなわち、
――オリンピックの舞台は、野球の世界一を決定するにふさわしいか否か?
という問題提起である。
2004年のアテネ・オリンピックでは、日本代表チームが、飛び抜けた技術と経験と合わせもっていた。そのことは、世界中の関係者が認めるところであるときく。
一方、その日本代表チームを破ったオーストラリア代表チームは、どうだったか? はたして、日本に越える良質の野球をしたといえるだろうか?
もちろん、オーストラリア代表選手たちの投げる球、バットを振る力、どれも一級品ないし準一級品である。
しかし、そうした面は、野球というスポーツの一部分でしかない。
野球は情報戦である。
情報戦とは、つまり、心理戦である。
いかに好投手の弱点を突き、その心を乱し、次の一点を奪うか?
いかに強力打線の穴を見い出し、その焦りを誘い、次の一点を防ぐか?
そうした心理的な駆け引きこそが、野球の醍醐味である。
以上の野球観は、あるいは、日本に固有のものなのかもしれない。
例えば、アメリカ野球が、身体能力を重視するあまり、思いの他、雑なプレイを許しているという現状は、専門家の間では、半ば常識になっている。
たしかに、TVでメージャーリーグの試合をみる限り、緻密な野球のイメージからは程遠い。アメリカの野球ファンの中には、
――力任せに投げ、力任せに打ち返す。
それが、野球の真の姿だと考える人が多いときく。
しかし、そろそろ、そうした古典的野球観に、風穴を開けるときがきたのではないか?
体力に任せた野球は、原始的な野球である――
そろそろ、身体能力に頼らない新しい野球観を、日本人あたりが、声高に主張し始めても、よい頃ではなかろうか?
もちろん、野球に「力任せ」の要素が含まれることを、否定はしない。
それが野球の原点であり、もしかしたら、野球の主要な要素かもしれない。
しかし、野球は、「力任せ」でない要素を、少なくとも部分的には含む。
日本人が、アメリカ人に負けず劣らず、あるいは、アメリカ人以上に、野球を愛し続けるのは、その「力任せ」ではない要素に、野球の新たな可能性を見出したからではなかったか?
こうした新しい野球観は、当然、日本の野球文化に深く根差したものだ。
日本の野球文化は、半世紀以上にもわたって、日本のプロ野球を支えてきた。その一つの到達点が、身体能力だけに頼らない野球である。
もちろん、日本の野球文化は、日本独自のものではない。春夏の甲子園大会は、ある種、独特の野球文化といえなくもないが、少なくとも、プロのレベルでは、野球発祥の地であるアメリカの野球文化に、大きく依拠している。
リーグ戦の仕組み――
リーグ戦の覇者同士の短期決戦の仕組み――
いずれも、アメリカのメージャーリーグの制度を、ほぼ忠実に模倣したものである。
初期の日本野球は、アメリカ野球から学ぶことばかりであった。その最も重要なことが、野球における一試合の重みの軽さである。
野球では、ほぼ同じレベルにある2チームの優劣は、一試合だけでは、付けがたい。それは、サッカーやラグビーにはない、野球というスポーツの特質でもある。
野球において、真の強者を決めるためには、1チーム当たり年間100試合以上のリーグ戦を組む必要があり、仮に短期に勝者を決める場合であっても、最低7試合を要する。このことを、日本野球は、アメリカ野球から学んだ。
本当に、100試合以上も必要なのか?
例えば、日本のプロ野球は、現在、セ・リーグ、パ・リーグとも、年間140試合が組まれている。このリーグ戦を4勝3敗のペースで闘い抜き、年間80勝を挙げれば、ほぼ優勝である。逆に3勝4敗のペースに停滞し、年間60勝しか挙げられなければ、最下位の可能性がある。
同じ日本のプロサッカー・リーグ(Jリーグ)の優勝チームが、ほとんど無敗に近い戦績であることを考えれば、野球においては、たった一試合の結果だけでは、チームの優劣を判断することが難しいといってよいだろう。
にもかかわらず、一試合で優劣をつけるのだとしたら、それは本質的には、クジと同じである。
こうした野球の特質を考慮し、日本のプロ野球も、アメリカのメジャー・リーグも、長期のリーグ戦を経て、その年の覇者を決めている。
短期決戦を設定する場合でも、最低7試合――どんなに切り詰めても5試合――が組まれているのは、多分、そういうことである。
以上を考慮すれば、オリンピック方式による金メダル・レースは、いささか場違いな感じがする。
各地の予選を突破し、本大会に集まった8チームのうち、真に優れた野球チームを決定しようと思えば、一チームあたり100試合以上の予選リーグと、7試合制の決勝トーナメントとが必要であろう。もちろん、とても、大会期間中に終えることはできない。
次善の策として、本大会参加チームを4チームに減らし、5試合制の決勝トーナメントを行うという案が挙げられるが、それでは、あまりにも参加チームが少ない。オリンピックとは名ばかりの盛り上がりに欠ける大会となろう。
だから、思う。
そもそも、オリンピックの舞台で野球の世界一を決めること自体に、無理があるのではないか?
もちろん、従来通り、オリンピックに野球という競技があってもいい。そこに、プロ野球選手が派遣されてもいい。
しかし、それは、一種の余興大会の位置付けが相応しい。
野球のことを、よく知っているファンであれば、ああいう形式での金メダル争いには、さほどの魅力を感じない。
その結果が、あまり信用ならないからである。
例えば、サッカーのワールド・カップ大会(W杯)のように、その大会の優勝チームのサッカーが、その後の世界サッカーの潮流を決めるというような影響力を、あのオリンピックに求める人は、いないだろう。
――では、野球にもW杯か?
という話になる。
そうではない。
前述したように、野球は一試合の重みが、サッカーほどにはない。この経験的事実を無視してサッカーの真似をしても、徒労に終わろう。
野球の特質を踏まえた野球独自の世界大会を開催するべきである。
では、どうするか?
――W杯ではなく、ワールド・シリーズである。
正確には「ワールド・トーナメント」とでも呼んだほうが、よいかもしれない。
例えば、アジア、アメリカ(北中米および南米)、ヨーロッパ、オセアニア、アフリカなどの各地域、各リーグの覇者ないし最終シリーズの勝者が、7試合制の決勝トーナメントに参加する――そういうアイディアはどうだろう?
着眼点は、サッカーW杯のような国別対抗戦にはしない、ということである。
国の代表チームが凌ぎを削るW杯形式では長期戦が難しい。普段、所属しているチームを離れ、代表チームに集結するというシステムでは、大会期間は、せいぜい一ヶ月が限度であろう。この一ヶ月の間に長大なリーグ戦をこなすことは、事実上、不可能である。
しかし、そもそも、野球の世界一を決めるのに、なぜ、これほどの手間がかかるのかといえば、サッカーやラグビーでは考えられない長大なリーグ戦でない限り、誰もが納得する覇者を決められないからである。
……であるならば、そのような既存のリーグ戦を、世界一決定戦の予選リーグに活用しない手はない。
つまり、日本でいえば、セ・リーグもパ・リーグも、世界一決定戦の予選リーグであり、両リーグの覇者が日本シリーズで雌雄を決し、その勝者が日本代表チームとなって世界一決定戦に進出するという形になる。
極めて現実的な案といえよう。
しかし、それでは球団の力関係がわかるだけで、国の野球水準の優劣はわからない――
そういう異論があるかもしれない。
逆である。
おそらく、サッカーW杯形式の方が、国の野球水準は判定しにくい。
国の代表チームは、所詮、急造チームである。サッカーなどは、その急造性が、さほどは問題にならないのかもしれないが、野球の場合、長い目でみた選手起用や攻守にわたる複雑なサイン交換などを考えれば、そうした急造チームが、野球の本質を損なう可能性がある。
もちろん、野球ファンなら、日本プロ野球界のオールスター・チームやアメリカ・メジャーリーグのオールスター・チームをみてみたいとは思う。
しかし、そうしたチームでは、情報戦・心理戦を含めた真に質の高い野球は、実践できないに違いない。結果として、「力任せ」の野球ばかりが目立つことになろう。
2004年のアテネ・オリンピックの日本代表チームも、その呪縛からは逃れられなかった。戦前、あれほど長短打を繋ぐ野球を目指すといっておきながら、大会中は、本塁打に頼る野球に終始した。
もちろん、本当にサッカーW杯形式でやるのなら、一チーム当たり年間百試合以上のしっかりとした国別リーグ戦をやればよい。
毎年、シーズンの始めに代表チームを編成し、代表に選ばれた選手たちは、その年は所属チームには帰らない、という仕組みにすれば問題はないかもしれない。
これは、意外に面白そうだ。
代表に選ばれた選手は、全員、一律の年俸にする。5億円をもらっている選手も、5千万円しかもらっていない選手も、同じ日本代表のユニフォームを着る以上は、同じ扱い――
そして、求められるのは、代表チームの勝利のみ――
かなり現実的ではなくなってくるが……。
世界大会の隆盛という観点でみれば、野球は、サッカーに大きく遅れをとった。
この事実は重くみなければならない。
今後、半世紀以上を費やし、野球の世界大会を、サッカーW杯以上の舞台に育て上げるためには、安易なサッカーの真似は禁忌である。サッカーと野球とでは、競技の本質が異なるからある。
この差異を軽視すれば、野球の世界大会は、出来の悪い二番煎じにしかならないだろう。
しかし、逆に、真に野球というスポーツに適合した世界大会であれば、
――今年の世界大会には、アメリカ代表チームの姿がありません。
だとか、
――日本、まさかの準々決勝敗退。
だとかいった番狂わせのニュースも、興奮と納得とをもって迎えられるだろう。
そのような世界大会で、日本代表チームが、仮にオーストラリア代表チームと7戦し、4敗したのであれば、日本は、自分たちの野球を、根本から見直さないといけない。
僕らの目に、どんなにオーストラリアの野球が粗雑にみえ、どんなにオーストラリア選手の走塁が甘くみえ、どんなにオーストラリア選手の守備が拙くみえても、4戦以上戦った結果の負けであれば、それは日本野球がオーストラリア野球に劣っているということを意味する。
野球の世界では、古くから、そうやって野球の強者と弱者とを決めてきた。
そういう伝統的な形式での敗戦なら、納得するプロ野球ファンは多いのである。
2004年のアテネ・オリンピックで、日本代表チームは、オーストラリア代表チームに連敗した。
オーストラリア代表チームの首脳陣は、日本の代表選手をつぶさに偵察していたという。つまり、オーストラリア代表チームは、日本野球のお株を奪い、見事に情報戦を制したもといえる。
しかし、たった2戦の結果では、せいぜい、先制パンチに成功したというのが、実態であろう。少なくとも、この結果だけでは、いくら手痛い敗戦だったとはいえ、日本野球の根本を見直さねばならない、というところまでは、いくまい。
僕とて、その必要はないと思っている。
もし、あのアテネ・オリンピックに第3戦以降があったならば、オーストラリア野球の走塁や守備の粗雑さは、必ずや致命的になったであろう。
しかし、そうした見方には、意味がないのである。
そう考えてしまったのでは、真剣に闘って負けた意味がないのである。
無駄な敗北――
これ以上の虚無があるだろうか?
やはり、オリンピックのような中途半端な形での世界一決定戦には、限界がある。
もちろん、興行としては面白い。真剣に勝負にこだわれる雰囲気は、オールスター・ゲームにはない良さがある。
しかし、あくまで、オリンピック野球の存在意義は、副次的にとらえておくべきなのである。
繰り返す。
オリンピックに野球競技があってもいい。
日本のプロ野球選手を派遣してもよい。
しかし、野球の世界一を、オリンピックの舞台で決定しようというアイディアは、日本野球が大事に温めてきた「身体能力に頼らない野球」の可能性を潰すかも知れない。
そんなことになったのでは、日本のプロ野球の衰退を加速させるだけであろう。
昨今、日本のプロ野球の一リーグ制への移行が模索されているが、この問題は、一リーグ制の議論と同じくらい、日本の野球文化にとっては重要である。