プロ野球でエッセイ――誰が神話をつくるのか?


 たいていの自慢話は嫌われるけれど、なかには当てはまらないものがある。
 例えば1950年代のアメリカでは、こういうやつだ。

 ――ミッキー・マントル? たしかに彼はすごい選手さ。けれど、ジョオ・ディマジオをお前は知らないだろう?

 あるいは、昨今の僕らの国では、こんな感じになるか。

 ――イチローはすごい。けど、長嶋って男は本当に天才だったなあ。

 今夜もきっと、どこかの家庭の、どこかの親子が、こんな会話を交わしているに違いない。

 そこには決まって、年長者が年少者に自慢する姿がある。
 しかし、通常、年少者が不快を覚えたりはしない。ジョオ・ディマジオや長嶋茂雄が、自分の知っているどのプレイヤーよりも優れていたということを、一旦は受けいれてしまう。

 こうして、数字による記録がヴィヴィッドな神話となる。
 その神話は、自慢が基調であるにもかかわらず、少しも嫌味ではない。むしろ、清々しい印象すら与える。

   * * *

 僕はイチローと同い年である。
 だから、彼と同じく僕も若い。それほどの年月を生きたわけではない。
 そんな僕がいうのもおかしいが、プロ野球が今日のような確固たる伝統と歴史とを獲得したことは感慨深い。

 野球は不思議だ。
 例えば、サッカーのごとく世界各地に普及したわけでもなく、一目でわかるほどにシンプルなゲームでもない。
 なのに、これほどの奥行きをもっているのは、どうしてなのだろう?

 ローカルであり、複雑であるがゆえの魅力なのだろうか?

 正面からの分析は、あと30年くらいで、ゆっくりと楽しむとして、もう少し別の角度から分析してみよう。
 スポーツ観戦における同時性について――という角度である。

   * * *

 僕はグラウンド上の長嶋茂雄を知らない。
 華麗なフットワークとグラブさばきとで、ショート・ゴロも処理してしまったという「四番、サード長嶋」を知らない。

 王貞治だったら、かろうじて覚えている。
 TVの試合中継で一回だけ、みたことがある。

 もちろん、僕より歳下の人であっても、TVのVTRなどで、王のプレイをみている人は多いに違いない。
 けれど、それは本物ではない。
 あの後楽園球場で、あの機会音のファンファーレに送り出され、白いバットを片手に、ゆっくりと左バッター・ボックスに入る王の姿は、VTRに残る全てのホームラン・シーンより、はるかに価値がある。

 いや――
 僕は、

 ――選手の何気ない動作が、その最も華々しいプレイを越えることがある。

 と、いいたいのではない。

 後楽園球場の左バッター・ボックスに入る王をTVの試合中継でみたとき、僕は、まだプロ野球を知らなかった。
 TVのブラウン管を通し、単に「王」と呼ばれている人物をみていたに過ぎない。
 だから、あのときの王と、たまたま試合中継で映った球場の売り子との間に、本質的な違いはなかった。
 それくらい、僕は王を知らなかった。
 あのときに目にしたのは「得点機に打席に向かうプロ野球の打者」なのである。
 そのときに、僕は王の顔を覚えたが、王貞治というプレイヤーの偉大さを知ったのは、その後、何年か経ってからだった。

 昨シーズン、ナイター中継をみていたら似たようなシーンに出あった。
 今度は東京ドームである。
 スコアリング・ポジションにランナーを置き、あの後楽園ゆずりのファンファーレに送り出され、しずしずと左バッター・ボックスに向かう松井秀喜――

 このとき、僕は、あることに気付くべきだった。
 少なくとも、時代の移り変わりを噛み締めるくらいは、してもよかったはずである。
 しかし、僕は何も感じなかった。
 ただ、
(あのときの王と同じだな)
 と思っただけである。

 結局、その打席、松井は凡打で終わる。

 松井が凡打に倒れた後で、僕は、そのことに気付いた。
(ちょっと待てよ?)

 もし、松井が、この打席で今までにない凄いアーチをかけていたら(ホームランを打っていたら)、僕は、あの左バッター・ボックスに向かう松井秀喜の姿を、一生、頭の片隅にしまい続けておこうと思ったことだろう。
 そうならなかったのは、松井が凡打したからである。

 ところで、凡打に倒れる松井とアーチをかける松井との間の境界線は、何だろうか?

 僕は松井のファンである。
 こう書くと、小学生と同レベルかと笑われそうだが、本当だからしょうがない。
 ただし、彼の全てが好きというわけではない。
 彼の描くアーチが好きなのである。

 だから、あと十何年か経ち、彼が某TV局のスポーツ番組に出たとして、そこにチャンネルを合わせるかどうかは別問題である。

 しかし、彼が初めて架けたアーチを語ることは止めないだろう。

 初夏の夜だった。
 巨人はヤクルトに2点のリードを許している。
 最終回ランナーなし――
 マウンドにはヤクルトのリリーフ・エース高津――
 多くのファンが試合の趨勢を判断し終え、関心は、もっぱらルーキー松井の打席に集まっていた。
 そして、この大物ルーキーは、高津のストレートを、ライト・スタンドへ一直線に突き刺したのである。
 それは紛れもなく「今までにない凄いアーチ」であった。

 結局、巨人は後続を断たれ、ゲームには敗れた。
 松井のホームランがチームの勝利に貢献することはなかった。

 にもかかわらず、このときの松井のイメージは、僕のプロ野球記憶に残っている。
 ヤクルトの野村克也監督に、
「打てるかどうかを確かめさせた」
 という意図があったことなど、どうでもよかった。
 ルーキー松井の初アーチという瞬間をリアルタイムで体験できたことが、何よりの喜びであった。

 リアルタイム――同時性こそが全てである。
 僕にとって、後楽園球場の左バッター・ボックスに向かう王貞治のイメージが、王貞治の他のどのメモリアル・シーンよりも鮮烈なのは、あのときの王貞治と同じ時間を共有できたからである。

 観客は、選手と同じ時間を共有することによってファンになる。
 選手とファンとを結びつける鎹(かすがい)は時間なのだ。

 こう考えると、年長者の年少者に対する自慢話の清々しさも、うなずける。
 年長者は、自分が古い時代に生きたことを、におわせただけに過ぎない。
 ファンとしての同時性へのこだわりが、多少ひねくれて表出しているに過ぎない。
 それを年少者が直観する。
 そして、選手と同じ時間を共有することの大切さを、無意識のうちに学ぶのである。

 時間を共有することで得るものは、たくさんある。
 選手の喜び、悔しさ、充足感、脱力感――
 そうした感情の動きまでをも共有することで、ファンと選手とは一体になっていく。

 ――となれば、やはりナイター中継は貴重なものなのだ。
 VTRの録画では意味がない。
 生中継が必須である。

 もちろん、選手と本当に一体になるには、時間だけでなく空間も共有するのが一番である。
 が、それでは、僕のような怠惰なファンはついていけない。

 だから、プロ野球ファンではない多くの方々へ――
 録画設定が台無しにされるといって、ナイター中継を目の敵にするのは止めませんか?

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