ふと耳にしたら、昔の情景が鮮やかによみがえってきた――そんな唄に出会ったことはないだろうか?
それも、よみがえってくるのは、当時の自分が、どこで何をしていたかといったト書きの記憶ではなく、当時の自分が、何を思い、どんな夢を抱いていたかといった叙情的な記憶だったりする。しかも、大抵の場合、それはあまりにもプライベート過ぎていて、家族とさえも共有してこなかった特別な過去を引きずっている。
そうした「自分だけの過去」を呼び覚ます唄は、人によって様々であろう。
高校の音楽の時間に聴いた歌曲という人もあれば、車の中で父親が好んでかけていた演歌という人もあるかもしれない。子供の頃にみたアニメの主題歌という人だってあるだろうか。
僕の場合は、圧倒的に歌謡曲が多いようだ。
「歌謡曲」というと、何やら時代がかっているけれど、他にいい言葉がみつからない。いわゆるシンガーソングライターたちが創る唄のことである。とりわけ、自分で手掛けた唄を自分で歌うシンガーソングライターの唄は、どれも、それなりの良さがあり、趣深い。
中学生になる前のこと、ちらりと耳にした唄が、ずっと頭から離れなかったことがある。
いまから考えれば、単に、その唄が理屈抜きに好きになっただけのことなのだが、当時は、そんな簡単なことがわからなかった。
気に入ったのは、メロディである。その証拠に、歌詞については、サビの部分以外、まったく頓着なかった。
……で、そのサビの部分で語られているのが、
――出逢った頃には、まさか、こんな日がくるなんて……。
との嘆息である。
1978年に発表された尾崎亜美さんの『オリビアを聴きながら』であった。
当時は、もっぱら杏里さんの唄であったから、そちらで記憶している人も多いだろう。
当時の自分が、なぜ、この唄に惹かれていったのか、いまも納得のゆく答えは得ていない。
とにかく、まだ貧しかった僕の心の中にも、するりと入ってき、艶然と腰を落ち着けてしまった。その様子が、いかにも不思議だったので、ますます想いは傾いていった。
タイトルにある「オリビア」とは、オリビア・ニュートン・ジョン(Olivia Newton John)のこと。イギリス生まれのアメリカ人歌手で、一児の母。国連の環境問題に関する大使に就任し、子供のための環境保全に関する本を執筆するなど、歌手として意外の活動にも活発な女性だったという。
そんな「オリビア」を聴きながら何となく詞を書いてみたというのが、『オリビアを聴きながら』の歌い出しである。
この唄を最初に耳にした頃、僕は、この詞の中身を、ほとんど、まったくといってよいほど、知らなかった。
唯一、覚えていたサビの部分の詞を基に、僕は、この唄を勝手に解釈する。
彼氏ができて、とても幸せそうな女の子が、これまでの彼氏との道のりを振り返って歌ったもの――と、考えたのである。
「初めて会った頃は、まさか、この人と一緒になるなんて……。でも、明日、式場でゴールインするの」
……みたいに、勝手に解釈していたわけだ。
ところが、『オリビアを聴きながら』は別れの唄である。「出逢った頃」とは、「初めて会った頃」ではなく「付き合い始めた頃」であった。
「あの頃は、こんな風に別れがくるなんて、夢に思わなかった……」
そういう意味である。
詞のとらえ方一つで、唄全体のイメージは一変する。
僕は、がつんと頭を小突かれたような気がした。
* * *
そもそも古来より、唄は詩であった。詩から詞を剥ぎ取ることはナンセンスである。
したがって、いくら旋律に思い入れしても、歌詞を無視すれば、唄を味わっていることにはならない。
たしかに、詩には色々な形態があっていい。韻文詩もあれば、散文詩もある。むろん、それぞれに良さがある。お年寄りが同人誌に寄せる短歌にも、女子高生がノートの隅に書き込む「ポエム」にも、よさがある。
けれど、やっぱり、詩は、メロディーとリリックスとが有機的に結びついて、初めて詩なのだと思う。
なぜなら、そのほうが人を感動させるからだ。同じ言葉でも、旋律にのっているものと、のっていないものとでは、心への浸透度が違ってくる。
そういう意味では、中世、世界各地を渡り歩いたといわれる吟遊詩人たちこそが、真の詩人であり、その正統な後継者が、当世のシンガーソングライターたちだと思うのだが、いかがだろうか?
* * *
いずれにせよ、僕が『オリビアを聴きながら』に夢中になった頃は、この唄の本当の良さをわかっていなかった。
わかっていたのは、勝手な勘違いによる唄の幻の実際である。
仕方のないことだった。
あの頃の僕は、何も知らなかった。女の子を別世界の住人のように思い、どう接すればいいのか皆目わからず、まして、オリビアの唄を聴きながらジャスミン茶を飲む大人の女の気持ちなど、逆立ちしたって想像できやしなかった。
そして、人間の幻を愛するということが、どういうことであり、また、その幻が、いかに危険なものであるかも……。
もちろん、僕は未熟さからくる稚なさを、バカにするつもりはない。むしろ、大事にしてきたし、これかも大事にしていきたいと思っている。
けれど、そうした稚なさが、以前ほど、身近なものではなくなってきている。それが寂しくもあり、嬉しくもある。
『オリビアを聴きながら』の最後は、ほろ苦い。
――疲れ果てたあなたが愛したのは私の幻だった。
というのである。
幻を愛するということが、どういうことか、自分の狭い経験からも、段々、わかってきた。
それだけ、僕も生きてきたということであろう。
そして、純な幻を追いかけていた少年は、もう、遠くにいったということであろう。
だとしたら、それは、喜ぶべきだろうか? 哀しむべきだろうか?
なかなかに、厄介な問題設定である。
多分、こういうことは深く考えないほうがいい。
(きっと、僕も大人になったってことだね)
と、勝手に気を良くすることにする。
でも、ちらっと考えてみる。
もしかして、人は、こうやって、老けていくのか?
だとしたら、大人になるということは、手放しで喜べることではなさそうだ。