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道草随想のページ

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 2007年6月27日 (水) 心の相対原理(前編)
 心は、心によってしか、その存在を確認されえない――
 ただ一つの例外を除いて――

 その「例外」とは――
 自分自身の心である。

     *

 誰しも、自分自身には、心が宿っていると思っている。

 だから――
 心が、どういうものかは、自明だと思っている。

 が、わかっているのは、自分自身の心のみである。
 他者の心は、わかっていない。

 実に、驚くほどに、わかっていない。

 試みに、鏡の前に立ってみよう。
 そして、鏡を覗き込む――

 そこには、一人の人間の顔がある。
 その顔の持ち主に心があることは、自明である。

 では、今度は窓の前に立ってみよう。
 そして、窓を覗き込む――

 そこにも、一人の人間の顔があった。
 たまたま同時に、誰か別の人間が、こちらを覗き込んだ。

 さて――
 その顔の持ち主に心があることは、自明であろうか?

 なるほど――
 例えば、会話などを交わせば――
 その持ち主にも自分と同じような心があることは、容易に推察されよう。

 が、確証はえられない。
 その持ち主が自分と全く同じような心を持っているという保証は、決して得られない。
 せいぜい、

 ――持っているらしい。

 ということが、推察されるだけである。

 その推察の妥当性を確認するためには――
 その持ち主の心を乗っ取るような魔術が必要だ。

 その心を乗っ取り、その持ち主になりきって考え、感じ、生きてみることで――
 その持ち主の心が、たしかに自分と同じような心であるということが、確認されうる。

 が、僕らは魔術師ではない。

 では――
 どうすればよいのか。

     *

 他者の心はわからない――
 自分の心しかわからない――

 そういうことを――
 僕は、積極的に受け入れるのがよいと考えている。

 そして、他者の心と自分の心とは、本質的には別物である、と考える。
 同列には扱わない、と――

 この決意は――
 心の科学に、多大な示唆を与えている。

 一般に――
 科学では、事物の個別性は扱わない。

 個別性ではなく、関係性を議論する。

 つまり、心を科学で扱うということは――
 心の関係性を議論するということである。

 自分の心の関係性を――
 議論することは可能であろうか。

 不可能であろう。

 なぜならば――
 自分の心は、自分にとっての唯一絶対不可欠のものだからだ。

 例えば、自分の心Aと自分の心Bとを想定し、それらAとBとの関係性を議論する――
 というようなことは、原理的に不可能である。

     *

 自分の心は扱わない――
 扱えない。

 では、他者の心はどうなのか。

 これは――
 扱えないことはない。

 他者の心の関係性を議論するということは――
 実は、そんなに難しいことではない。

 例えば、他者の心Aと他者の心Bとを想定し、それらAとBとの関係性を議論する――
 ということは、原理的には大いに可能である。

 どういうことか――

     *

「心の理論」という概念がある。
 これは、他者の心の状態を推定する能力のことだ。

 ――子供は、3歳から4歳にかけて「心の理論」を獲得する。

 などといわれる。
 あるいは、

 ――ある種の障害を負った子供は、「心の理論」を欠いている。

 などともいわれる。

 もう少し具体的に考えてみよう。

(後編へ)
 2007年6月27日 (水) 心の相対原理(後編)
(前編より)

 部屋がある。
 部屋の中には女の子がいる。

 女の子は、ぬいぐるみで遊んでいる。

 やがて――
 部屋の外から、女の子を呼ぶ声がきこえてくる。

 お母さんだ。

 女の子は、ぬいぐるみをオモチャ箱にしまい、部屋の外に出る。

 しばらくして――
 男の子が部屋の中に入ってくる。

 この男の子は、いたずら好きで――
 ぬいぐるみをオモチャ箱から取り出し、洋服ダンスの中に隠してしまう。

 男の子がいなくなった後で――
 女の子が帰ってくる。

 女の子は、先ほどと同様、ぬいぐるみで遊ぶつもりでいる。

 以上のような映像を、子供にみせる。
 そして、質問をする。

 ――さて、女の子は、この後、いったい、どこを調べるでしょう?

 と――

 ある子供は、

 ――洋服ダンスの中――

 と答える。
 ぬいぐるみが、男の子によって洋服ダンスの中に隠されたのだから、洋服ダンスの中を探せばみつかる、と考える。

 が、そうは考えない子供もいる。
 ほとんどの大人が、そうであるように、

 ――オモチャ箱の中――

 と答える。

 たしかに、ぬいぐるみは男の子によって洋服ダンスの中に隠されたが――
 そのことを知っているのは自分だけであり、女の子は知らない――
 女の子は今も、ぬいぐるみはオモチャ箱の中にしまわれていると思っている――
 だから、女の子は、オモチャ箱の中を調べるだろう――
 そう考える。

 以上の顛末を、「心の理論」という言葉を使って記述すると、以下のようになる。
 すなわち、

 ――洋服ダンスの中――

 と答える子供には「心の理論」が備わっておらず、

 ――オモチャ箱の中――

 と答える子供には「心の理論」が備わっている、と――

「心の理論」をめぐる議論とは――
 このように進められていく。

     *

「心の理論」に関し、安易に見過ごせないことは――
 子供が他者の心の状態を想像できる否か、ということだけではない。

 その子供にとっての女の子の心が、いかに生み出されているのか――
 ということである。

「心の理論」に関する議論によれば――
 女の子の心は、「心の理論」が備わっていると判断された子供にとっては、たしかに、この世界に存在しているらしい――
 ということだ。

 逆にいえば――
「心の理論」が備わっていないと判断された子供にとっては、女の子の心は存在していないらしい。

 大人は「心の理論」を獲得している。

 それは、もう、ほとんど思い込みの域に達している。
 すなわち、

 ――自分には心が宿っている。その自分にとって、心が宿っていると感じられる存在については、「心は宿っているらしい」と結論づけても構わないであろう。

 という思い込みだ。

 大人の知識や経験は、心の存在の蓋然性については、ほとんど直情的に判定してしまう。

 子供は、そうではない。
 少なくとも、「心の理論」を獲得しかかっている子供は、そうではない。

 ここに、「心の理論」に関する議論の価値がある。

     *

 話を整理しよう。

「心の理論」に関する議論は――
 少なくとも「心の理論」を獲得しかかっている子供については、女の子の心の存在について、ある種の決定的な示唆を与える。

 それは――
 子供が「心の理論」を獲得したときに、その子供にとっての世界に、その子供にとっての女の子の心が、生み出されている――
 ということだ。

 つまり――
 女の子の心を生み出しているのは、女の子の脳では決してなく――
「心の理論」を獲得しかかっている子供の心である、ということである。

 以上を一般化すると――
 以下のようになる。

 すなわち――
 心というものは、何か他の心によって――そして、他の心によってのみ――存在が確認されうる――
 ということだ。

 これを「心の相対原理」と呼ぼう。

 心について、多少なりとも科学的に考えるときに――
 僕は、この原理を出発点に据えたいと思っている。

     *

 一つ注意を促したい。

「心の相対原理」が扱うのは、あくまでも他者の心である。
 自分の心ではない。

 もちろん――
「心の相対原理」を拡張し、自分の心にも適用することは可能である。

 が――
 今の僕は躊躇する。

 そんな風に拡張したら、元も子もなくなってしまうのではないか。
 無条件の相対主義や自分勝手な独我論に、堕してしまいそうである。

 思い出そう。

「心の理論」を獲得した大人は――
 他者に心が宿っているか否かについては、直情的に判定しがちである。

 このことを、僕らは不用意に無視するべきではない。
 2007年6月14日 (木) 心脳問題は熱心問題かもしれない
 心脳問題を考える上で――
 心は、脳に結び付けては、ダメである。

 心脳問題は熱心問題かもしれないからだ。

 どういうことか。

     *

 心脳問題とは、

 ――脳は、いかに心を生み出すのか?

 との問いである。
 古来より、哲学者や科学者たちを悩ませ続けてきた。

 通常の発想に従うならば――
 この問いに取り組むには、

 ――心の実態を、脳の機能に絡めて理解しよう。

 ということになる。

 が、これは、まずい。
 少なくとも、まずい可能性がある。

 心脳問題は、熱心問題である可能性が否定できないからだ。

     *

 熱心問題の「熱心」とは――
「あいつは熱心だ」の「熱心」ではない。

「熱」と「心」とのことである。

 心脳問題の「心脳」が「心」と「脳」とに分かれるように――
 熱心問題の「熱心」も「熱」と「心」とに分かれている。

「熱」とは、物理学でいうところの熱である。
「部屋に熱がこもっている」の「熱」だ。

 一方、「心」とは、医学・生物学でいうところの心臓である。
「強心剤」や「心拍数」の「心」だ。

 よって、熱心問題とは、

 ――心臓は、いかに熱を生み出すのか?

 との問いである。

 医学や生物学の初歩を学んだ者には、すぐにわかるように――
 この問題は、問いの立て方が間違っている。

 心臓は、別に熱を生み出しているのではない。
 たしかに、心臓が拍動しているうちは、体は温かく――すなわち、熱を帯びており――
 心臓の拍動が停止すれば、体は冷たくなる――すなわち、熱を失っていく。

 が、そのことと熱の本質とは関係がない。

 熱とは、分子レベルの振動である。
 個々の分子に充填されるとみなされるエネルギーの総和だ。

 こうしたエネルギーを生み出しているのは――
 主に、体の中の諸化学反応である。

 体が酸素を吸引し、食物を摂取し、それらが血となり肉となって、あるいは、体の力となっていく過程で生じるものが、熱である。
 熱が生み出される原理は、心臓の働きとは、とくに関係がない。

 とはいえ――
 心臓と熱とが全く無関係かというと、そうでもない。

 心臓の働きは循環である。
 体の隅々にまで血液を運んでいる。

 この血液が熱を運んでいるのである。
 つまり、体は、心臓が血液を循環させる結果として、熱を帯びる。

 心臓と熱とには、さらに決定的な関係がある。

 心臓は血液を循環させている。
 その血液は、熱だけでなく、酸素や栄養素も運んでいる。

 これら酸素や栄養素が血や肉や力となる過程で、熱が生み出される。

 熱は、体の隅々で生み出されている。
 生み出された熱は、循環する血液によって巧妙に分配され、体の深部に蓄えられる。

 このような視点でみれば――
 心臓と熱とは複雑に関わっている。

     *

 冒頭で、僕は、

 ――心臓は、いかに熱を生み出すのか?

 と問うた。
 そして、この問いは間違っていると断じた。

 正確には、間違っているのではない。
 不適切なのである。回答に迂遠を強要されるという意味で、不適切である。

 ――脳は、いかに心を生み出すのか?

 という問いにも、同様のことがいえる。

 たしかに、脳は心に関わっている。

 が、その関わり方は、心臓が熱に関わっているような関わり方かもしれない。
 その関わり方が十分に複雑なので、あたかも脳が心を生み出しているかのようにみえているのかもしれない。

     *

 脳のことは、ここ100年で、だいぶ、わかってきた。
 神経科学や脳科学が築き上げた知識体系は、100年前のそれと比べ、格段に進歩した。

 が、心のことは、まだ、よくわかっていない。

 心は、物理学の物性のような概念であろうと、僕は推測しているが――
 具体的に、どのような物性かは、少しも定かではない。

 熱の原理が科学によって解明されたように――
 心の原理も、いずれは科学によって解明されるであろう。

 今は、その解明の端緒を探すときである。

 心の科学は脳を一旦、忘れるべきだ。
 脳の科学も心を一旦、忘れてよい。

 現に、神経科学者や脳科学者の多くは、心を忘れている。

 無自覚に忘れているなら、論外だが――
 意識的に忘れているなら、構わない。

 それは、少なくとも心脳問題の解明を妨げる姿勢ではない。

 今、心脳問題に求められる解は――
 心と脳との架け橋ではない――心への桟橋である。
 2007年5月25日 (金) イチロー選手がマウンドに上がった夜
 その夜――
 イチロー選手は「はらわたが煮えくり返った」そうである。

 1996年のオールスター・ゲームのことだ。

     *

 以下は今日のネット・ニュースで知った(MAJOR.JP、提供)

     *

 1996年のオールスター・ゲーム――

 この試合――
 9回、ツーアウト、打席に松井秀喜選手が入るところで――

 ――ピッチャー、イチロー

 がコールされた。

 イチロー選手は外野手である。
 投手はアマチュア時代に経験しているが、プロでは投げたことがない。

 それでも――
 当時、日本球界を代表するアベレージ・ヒッターの登板で、スタジアムは騒然となった。

 しかも、打席に立つのは松井選手である。
 オールスター・ゲームの余興としては申し分がなかった。
 当時、松井選手も、日本球界を代表するパワー・ヒッターであった。

 舞台は、ととのった。

 ――わくわくした。

 と、イチロー選手も振り返る。

 が、相手チームの監督は、代打をコールした。
 打席に入ったのは松井選手ではなく、ベンチに控えていた某投手であった。

 ――はらわたが煮えくり返って、完全に冷めてしまった。

 と、イチロー選手はいう。

     *

 このシーンを、僕は覚えている。
 TV中継でみていた。

 松井選手に代打を送ったのは、野村克也監督である。
 今は楽天イーグルスの監督だ。

 野村監督は、

 ――打者が投げるのだから、投手が打席に入るのが筋だ。

 と説いた。

 これに納得できなかったファンが多かった。
 僕の友人にも、何人かいた。

 が、野村監督の説明は、筋が通っていた。

 もし、あのまま松井選手が打席に入り、凡打に終わっていたら――
 恥をかいたのは、松井選手である。

 ――相手が投手じゃないのに、打てなかった。

 ということになる。
 そして、その可能性は低くはなかった。

 投手と打者との対戦は、投手が有利である。
 とくに1回の勝負では、常に投手が有利である。

 投手は、通常、打者を3打席連続打ち取って初めて「勝ち」に値する。
 1回では、勝負の判定はできない。

 ――そんな不利な打席に松井選手を送れない。

 というのが、野村監督の言い分であった。

 オールスター・ゲームである。
 様々な人がみている。玄人もいれば素人もいる。

 観客が全て玄人なら問題はない。
 松井選手が予測通り凡打に終わっても、惜しみない喝采を送るであろう。安打や本塁打に終わったら、なおさらだ。

 が、素人は、そうはみない。
 松井選手が、本塁打は愚か、安打すら放てないのをみて、

 ――イチロー、スゲえ!

 あるいは、

 ――松井、大したことねえ。

 と誤解をする。
 それが、玄人には我慢ならなかった。

 だから――
 あの夜の野村監督の決断は、穏当である。

 にもかかわらず――
 イチロー選手は、

 ――はらわたが煮えくり返った。

 といった。

(ちょっと言い過ぎだ)
 と感じる。

 わくわく感に水を差されたのは気の毒なれど――
 自身が絶対的に有利な勝負に「わくわく感」は頂けない。

 あのとき――
 イチロー選手は、二重の意味で有利であった。

 一つは、投手の立場であったということ――
 もう一つは、負けても失う物は何もなかったということ――

 それを、あれから9年が経った今でも、気づいていないとは――

 少し、がっかりした。

 いかにも純朴すぎる。

 が――
 そこがイチロー選手の良さでもある。

     *

 僕は、この件での松井選手の見解が気になっている。
 あの夜、代打を送られたときの気持ちは、どんなものだったろう。

 イチロー選手も松井選手も、今やアメリカ球界に欠かせぬ選手だ。
 報道などでみる限り、互いに最大限の敬意を払っている。

 松井選手にとっても、あの夜のイチロー選手には粋に感じるものがあったろう。

 僕が夢想するに――
 イチロー選手は、心のどこかで、自分が痛打されることを望んでいたのではあるまいか。

 絶対的に有利な立場で勝負を挑み――
 見事に打ち負かされる未来を――
 心のどこかで待ち望んでいたのではないか。

 もちろん――
 だからといって、手加減はしない。

 姑息や卑屈はイチロー選手に似合わない。

 全身全霊の力で勝負を挑み――
 打ち負かされるて、よしとする――

 そんな人であって欲しいと、夢想する。

 いや――
 本当に、そうだったとしても――

 その思いを、イチロー選手は墓場まで持っていく――
 そんな人であって欲しいと、夢想する。
 2007年4月29日 (日) 『残酷な天使のテーゼ』の詞の力
 僕は、文筆が本業で、医師が副業なのだが――
 今は誰も信じそうにない。

 就業時間は副業の方が長くなった。
 収入比率に至っては、どうしようもなく副業に偏っている。

 で――

     *

 先日――
 その副業の最中に『残酷な天使のテーゼ』が流れてきた。
 病棟の職員の誰かが、今日の流行歌に混ぜて廊下に流していたBGMである。

『残酷な天使のテーゼ』は、1995年のTVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』のオープニング・ソングだ。

『新世紀エヴァンゲリオン』は、いわずとしれたヒット作である。
 80年代の『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』と肩を並べる画期的な作品であると、大いにもてはやされた。
 衒学的な評論もどきが大量に生産された。

 僕がみたのは大学の先輩が愛蔵していたレーザー・ディスク版で、97年か98年のことだった。

 当時は医学生の身であったが、文筆家としての気概も一端(いっぱし)にもっていたから――
 ご多分にもれず、色々に分析し、評論らしきものを書きなぐった。

 そのときに問題にした多くのテーマを、今は消化し切っている。

 が、一つだけ――
 気になっていることがあった。

『残酷な天使のテーゼ』の詞について、だ。

『新世紀エヴァンゲリオン』の物語は――
 得体のしれぬロボットに乗り込む少年パイロット・碇シンジと、その直属の上官にあたる若き女性指揮官・葛城ミサトとの心の交流が――
 主軸の一つになっている。

 若い女性が少年の母親になろうとし、なりきれない――
 そういう物語と、詠み解くことができる。

 その主軸の一つを、『残酷な天使のテーゼ』は的確に捉えているようにみえる。
 この詞の視点は、僕には明らかに、葛城ミサトであるように思える。

 が――
 信じられないことに――
 この詞を書いた及川眠子さんは、物語の概要を、ほとんど知らされていなかったそうだ。

 当然、葛城ミサトの役柄も役割も、知らなかったことになる。

 なのに――
 なぜ書けたのか。

 いや――

 そういうことだけなら――
 よくあることに違いない。

 優れた作詞家は、そのような離れ業を、平気でやってのける。
 及川さんは、1989年に日本レコード大賞を受賞されている。とくに驚くべきことではない。

 驚くべきことなのは――
 もう少し個人的なことだった。

 僕が『新世紀エヴァンゲリオン』の中に見出した唯一の接点は、及川さんの詞であった――という事実ないし感慨である。

 白状すれば――
 90年代の僕は『新世紀エヴァンゲリオン』という物語に、それなりには入れ込みながらも――
 結局は、まともに扱うのが、ためらわれていた。

 そのためらいを、僕は当時から自覚していたが――
 取るに足らない気の迷いとして、封殺していた。

 そうなのである。
 少年が主人公のロボット・アニメなど、本来の僕なら、歯牙にもかけぬ物語であるはずだった。

 それなのに、なぜか入れ込んだ。

 なぜか。

 鍵は及川さんにある。

 及川さんが『残酷な天使のテーゼ』を書いたときに――
 物語の概要は知らされていなくても、その起点くらいは、知らされていたのではなかったか――
 その起点に依って、自らの感受性に頼って紡いだ物語が『残酷な天使のテーゼ』の詞ではなかったか。

 つまり――
 僕は、『新世紀エヴァンゲリオン』という物語を、制作者たちの思惑とは無縁のところで、解釈しようとしていた――
 制作者たちの意図ではなく、及川さんの意図に取り憑かれていた――
 そういうことである。

 評論らしきものを書きなぐったくらいなので――
『新世紀エヴァンゲリオン』の物語の概要を――
 僕は、僕なりに把握している。

 把握しているからこそ、敢えていう気にもなる。
 僕が求めていたものは、『新世紀エヴァンゲリオン』の本流にはなかった。

 僕が求めていたものは――
 及川さんの詞の世界――『残酷な天使のテーゼ』という名の支流――にしかなかった。

 そのような意味で――
 僕は『新世紀エヴァンゲリオン』の物語を、全く理解していなかった。

 このことは、僕にとっては、かなり驚くべきことである。

 オープニング・ソングの詞が、本遍の物語を喰ってしまう――
 そういうことは、十分に起きうることであるらしい。

 詞の力を、改めて思い知った。
 2007年2月18日 (日) 心脳問題の困難(前編)
 いわゆる心脳問題の困難は、

 ――研究の対象になりにくい。

 という一点に尽きるであろう。

 とりわけ、なりにくいのは、「心」のほうである。

     *

 心脳問題は、一昔前までは、

 ――心身問題

 といわれてきた。

 ――いかにして体から心が生じるのか?

 という問いである。
「身」とは体のことだ。

 が、今日では「心脳問題」と呼び代えられることが一般的である。
 今日では、心は脳から生じていることが、少なくとも医科学的には、ほぼ疑いようのない時代となった。

 心脳問題に答えるには――
 少なくとも一度は、脳と心とを分離せねばならない。

 ――分離するからダメなんだ。

 という主張があることは、了解しているが――
 そうした主張の意義も、心と脳とを一度は分離せねば、理解できない。

 心脳問題とは、あくまで、心と脳との関係を問うこと――あるいは、そうした問いに付随しうる研究領域の総称である。

 さて――
 心脳問題の本質は、良くも悪くも、心にある。

 心を、いかに研究するかが、問題なのだ。

 脳には問題が少ない。
 現に、多くの研究者が脳を扱っている。

 およそ物事が研究されるには、

 ――研究の対象である物事を、まるで、まな板の上に乗せるかのようなアプローチ――

 が、不可欠である。

 このアプローチは、脳では可能だ。
 もちろん、実際の研究現場で、まな板の上に脳が乗せられることは、ほとんどないが、

 ――さも乗せられているかのように議論すること――

 なら日常である。

 そのような議論として挙げられるのは、例えば、

 ――脳は、いかなる構造を有するのか。

 ――脳は、いかなる機能を有するのか。

 あるいは、

 ――脳を構成する物質は何か。

 ――脳の機能の最小単位は何か。

 ――その最小単位を担う構造は存在するのか――

 ――存在するのなら、それは何か――

 ――脳の機能を修飾する物質は何か。

 といったものである。

 こうした議論は、脳では可能だが、心では極めて難しい。
 僕の知る限り、こうした議論の中で、
(たしかに心を扱っている)
 と万人に納得させられるようなものは、ごくわずかである。

 その「ごくわずか」も、心の本質を突いているとは言い難く――
 せいぜい心の本質を擦っているようなレベルに止まっている。

 理由は簡単で――
 研究者が心の本質を突こうとすればするほどに、手ひどい目くらましにあうからだ。

 例えば、心の機能の最小単位は何か――などの議論を実際に思い浮かべてみるとよい。
 まともな感覚で論じれば、多分、絶望的なまでに衒学的となる。

 心をまな板の上に乗せようとすると――
 心は瞬時のうちに姿を眩ましてしまう。

 が、脳をまな板の上に乗せることは可能である。
 取り返しのつかない変形や変性を被ることはあるが、瞬時のうちに姿を眩ますことはない。

 だから、心脳問題が大きく取り上げられる。
 脳をまな板に乗せることはできるから、そろそろ心脳問題も解けるのではないかという憶測が流れたのだ。

 脳をまな板の上に乗せられるということは、

 ――脳は、多くの研究者たちが、研究の対象として、同じように扱える。

 ということを意味する。

 もちろん、ここでの「脳」とは、実物の脳ではなく、概念としての脳である。
 研究者たちは、同じように脳に狙いを定め、同じように研究することができる。

(後編へ)
 2007年2月18日 (日) 心脳問題の困難(後編)
(前編より)

 こうした素地の基盤は、

 ――実物の脳をまな板の上に乗せようと思ったら、訳もなくできてしまう。

 という事実にある。

 現に、全国の大勢の医学生が、毎年、解剖台の上に実物の脳を置いている。

 もちろん、それは死んでいる脳であり、「脳」と一括りに呼んでも差し支えのないものかどうかは、微妙なところなのだが――
 この際、それは大した問題ではない。

 少なくとも研究者たちにとっては、相応の時間と手間とをかければ、生物学的な意味で生きている脳を、解剖台の上に乗せることは可能であろう。
 それが真に生きているとみなせるかどうかは別にして――

 心は、そうはいかない。
 どんなに時間と手間とをかけても、心を解剖台の上に乗せることは不可能である。
 心は、解剖台の上に乗るようなものではない。

 実物としての心は、もちろん――
 概念としての心も、そうである。

 いや――
 実物の心など想像もしえないから――
 概念としての心が解剖台の上には乗らないのである。

 もう一度だけ、言及しよう。

「解剖台の上に乗せる」の真意とは――

 ――多くの研究者たちが、自分の研究の対象として、それを同じように扱える。

 ということである。
 よって、心を解剖台の上に乗せられないということは、

 ――心は、多くの研究者たちが、自分の研究の対象として、同じようには扱えない。

 ということである。

 人は、自分の心しか扱えない。
 この世で、
(たしかに、これは心だ)
 と思えるものは、唯一、自分の心だけである。

 決定的な致命傷は――
 その自分の心を、別の誰かと共同では扱えない、ということである。

 自分が心を扱うときに、それを扱えるのは唯一、自分だけである。
 自分の心を、他人と共同で扱うことは、原理的に不可能だ。

 つまり、心を扱うとは、

 ――たった一つのものを、たった一人で扱う。

 ということである。

 このような研究に、意義はあるだろうか。

「たった一つのものを」ということだけなら、とくに問題とはならない。
 例えば、宇宙は、たった一つである。
 にもかかわらず、宇宙を研究する宇宙論という学問分野が、たしかに成り立っている。

 深刻なのは、「たった一人で」のほうだ。

 喩えるなら――
 心の研究は、たった一人の宇宙論である。
 この宇宙には人間が自分しかおらず、その自分が宇宙を研究するようなものなのだ。

 もっとも、この場合には、多数の平行宇宙が併存しており――
 それら宇宙には、やはり、それぞれ、たった一人の人間がいて――
 それら人間たちと自分とは、何らかの交信を行うことが可能である。

 が、それら人間たちがみている宇宙を、自分はみることができない。
 逆に、自分がみている宇宙を、それら人間たちにみせることはできない。

 乱立・併存する平行宇宙の一つひとつに隔離された人間たちが――
 それぞれ、思い思いに自分たちの宇宙に思いを馳せている――
 そのような現状が、心の研究の現状である。

 この現状は、心の研究の意義を、鋭く問い質す。
 はたして、たった一人の宇宙論に意義などあるのだろうか、と――

 もし、あるのだとしても――
 この現状を打破しない限り、心の研究に明日はない。

 心の研究に明日がなければ――
 心脳問題にも明日はない。

 心脳問題の困難とは、この一点に尽きるのである。
 2007年1月8日 (月) ラマヌジャンの解法(1)
 ラマヌジャンの解法に魅せられている。

 ラマヌジャンは、19世紀のインドに生まれた数学者だ。
 32歳で、この世を去った。
 その短い生涯の中で、3000 を越える公式を発見したといわれる。

 そのラマヌジャンが、次の問題を、不思議な発想で解いた。

問題
 右端から順に、1、2、3、…、nと整数が並んでいる。nは1以上の整数である。いま、ある整数xについて、xの右側に並んでいる整数を全て足すと、xの左側に並んでいる整数を全て足した値に等しくなる。nが 1500 以下の整数であるとき、そのようなxを全て求めよ。

 僕は、この問題を、書籍『コマ大数学科特別集中講座』(ビートたけし・竹内薫、フジテレビ出版、2006 年)で知った。
 フジテレビの深夜番組『コマネチ大学数学科』から派生した書籍だ。

『コマネチ大学数学科』は、ビートたけしさんを軸とした深夜番組である。
 毎回、一題の数学の問題が出題され、それをビートたけしさんらが解く。
 深夜帯としては異例の高視聴率を誇っているそうだ。

 ――コマネチ

 とあるのは、ビートたけしさんだからだろう。

 ちなみに、仙台では放映されていない。
 だから、僕は、みたことがない。

『コマ大数学科特別集中講座』によれば、冒頭の問題は『コマネチ大学数学科』の 2006 年 8 月 31 日の放映で扱われた。
 ただし、nの条件が、

 ――10 以上、50 以下の整数である。

 と改変された。
 番組制作の事情によったものだと思う。

     *

 さて――
 問題の意味を汲み取ろう。

 そもそも、

 ――右側に並んでいる整数を全て足すと、左側に並んでいる整数を全て足した値に等しくなる。

 とは、どういう意味か。

 nが8のときを考えると、わかりやすい。
 このとき、整数は8つあり、それが以下のように並んでいる。

  1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8

 このとき、xは6だ。
 なぜなら、

  1+2+3+4+5 = 15
  7+8 = 15

 を得る。
 6の右側に並んでいる整数を全て足すと、6の左側に並んでいる整数を全て足した値に等しくなるのは、明らかだ。

 では、nが7のときは、どうか。
 この場合のxは、みつからぬ。
 例えば、xを5と仮定すると、

  1+2+3+4 = 10
  6+7 = 13

 となる。xを4や6だと仮定してみても、結果は同じだ。xが3以下や7の場合は調べるまでもない。

 同様にし、nが6以下の場合や9の場合を調べても、xは存在せぬことがわかる。
 nが9以下であるならば、xが存在するのは、nが8のときだけである。つまり、xが存在するのは極めて稀なケースらしい。

 よって、冒頭の問題の真意は、

 ――そのような稀なケースを突き止め、そのときのxを求めよ。

 というものである。
 これを、ラマヌジャンは、

 ――nは 1500 以下の整数である。

 との条件で解いた。

 これでは、話が一気に複雑になるので――
 まずは、『コマネチ大学数学科』にならい、

 ――nは 10 以上、50 以下の整数である。

 との条件で考えてみよう。

     *

 もし、冒頭の問題のxが存在するならば、n個の整数は次のように並ぶはずだ。

  1, 2, 3, …, x−1, x, x+1, …, n−1, n

 xの両側に並ぶ整数の和は等しいから、等式:

  1+2+3+…+(x−1) = (x+1)+… +(n−1)+n  ――【1】

 が成り立つ。

 ここで、等式【1】を計算で整理する。

 等式【1】の左辺を詳しく書くと、

  1+2+3+…+(x−3)+(x−2)+(x−1)

 となる。この値をSとおく。
 Sは、以下のように書いてもよい。

  (x−1)+(x−2)+(x−3)+…+3+2+1

 ここで、これら2つの値を加えた値、

  2S
  = 1+2+3+…+(x−3)+(x−2)+(x−1)
  +(x−1)+(x−2)+(x−3)+…+3+2+1

 を考える。
 この 2S について、上段の数と下段の数とを、左端から順に足していくと、答えは全てxであり、そのような足し算は x−1 回だけ行われる。
 よって、

  2S = x(x−1) ⇔ S = x(x−1)/2

 を得る。
 よって、等式:

  1+2+3+…+(x−1) = (x+1)+… +(n−1)+n  ――【1】

 の左辺は、

   x(x−1)/2

 と計算できる。
 一方、等式【1】の右辺も、全く同様に、

   (x+n+1)(n−x)/2

 と計算できる。
(参考:補足【1】)

 よって、等式【1】は、

  x(x−1)/2 = (x+n+1)(n−x)/2

 と書ける。
 この式を、xについて整理すると、等式:

  x2 = n(n+1)/2  ――【2】

 を得る。
 つまり、求めるxは等式【2】をみたす整数だ。
(参考:補足【2】)

(第2編へ)
 2007年1月8日 (月) ラマヌジャンの解法(2)
(第1編より)

 ここで、等式【2】の右辺に着目しよう。
 等式:

  x2 = n(n+1)/2  ――【2】


 の右辺の分子は、連続する2つの整数の積である。
 よって、どちらかは偶数であり、どちらかは奇数である。

 一方、等式【2】の左辺は、xの2乗である。
 よって、等式【2】の右辺も、整数の2乗であることが必要だ。

 よって、今、等式【2】の右辺の分子に含まれる奇数をmとおくと、mは、ある整数の2乗であることが必要だ。
 なぜなら、もし、mが、ある整数の2乗でないとすると、mと対をなす偶数は、mを約数にもたねばならぬ。この偶数とmとは、連続する2つの整数であった。一般に、偶数が、隣接する奇数を約数にもつ場合は、

  偶数2, 奇数1

 の場合だけである。つまり、mが1の場合だけである。が、今、mは、ある整数の2乗でないと仮定している。よって、不合理である。
 つまり、mは必ず、ある整数の2乗である。

 さて、等式:

  x2 = n(n+1)/2  ――【2】

 の右辺の形から、mはnもしくは n+1 である。
 一方、nは 10 以上、50 以下の整数であった。
 よって、mは最小で 11、最大で 51 であるとわかる。

 このようなmのうち、ある整数の2乗になっているものは、49、25 の2つだけだ。

 mが 49 のとき――
 残りの偶数は、50 または 48 である。
 よって、等式:

  x2 = n(n+1)/2  ――【2】

 は、

  x2 = (49・50)/2
  または
  x2 = (48・49)/2

  ⇔ x2 = 352
    または
    x2 = 6・142

 と書ける。
 xは整数であるから、

  x = 35

 だけが等式【2】をみたす。

 また、mが 25 のとき――
 残りの偶数は、26 または 24 である。
 よって、等式【2】は、

  x2 = (25・26)/2
  または
  x2 = (24・25)/2

  ⇔ x2 = 13・52
    または
    x2 = 3・102

 を得る。
 xは整数であるから、等式【2】をみたすxは存在せぬ。

 よって、求めるxは 35 だけとわかる。

     *

 以上は、nを 10 以上、50 以下の整数と限った場合の解法だ。
 僕のオリジナルの解法である。

 前回の『道草随想』でも触れたが――
「オリジナルの」というのは、「文献などをみずに独力で編み出した」という意味である。
「僕が世界で最初に編み出した」という意味ではない。

     *
 
 では――
 次に、nが 1500 以下の整数である場合の解法について、考えよう。

 基本は同じだ。
 等式:

  x2 = n(n+1)/2  ――【2】

 の右辺の分子に含まれる奇数mが最大で 1501 である、という点だけが違う。

 ここで、
 
  372 = 1369 < 1501 < 1521 = 392

 に注意すれば、

 ――mは 37 以下の奇数を2乗したものである。

 とわかる。
 よって、

 ――mが 372 のとき――

 ――mが 352 のとき――

 ――mが 332 のとき――

 という風に、しらみ潰しに探していけば――
 全てのmを見出し、全てのxを求めることができる。

 が、これは、ちょっと面倒である。
 だから、ラマヌジャンは、この解法を採らなかった。

 代わりに採ったのは、一見、場当たり的に思える解法である。
 2の平方根の連分数を援用した解法だ。

(第3編へ)
 2007年1月8日 (月) ラマヌジャンの解法(3)
(第2編より)

 連分数とは、次のような手順で書き出される分数のことだ。

 分数 a/b について、aをbで割ったときの商を q1、余を r1 とすると、

  a/b
  = (bq1+r1)/b
  = q1+r1/b

 と表される。
 ここで、bを r1 で割ったときの商を q2、余を r2 とすると、

  q1+r1/b
  = q1+1/(b/r1)
  = q1+1/(r1q2+r2)/r1
  = q1+1/(q2+r2/r1)

 と書ける。
 同様に、r1 を r2 で割ったときの商を q3、余を r3 とすると、

  q1+1/(q2+r2/r1)
  = q1+1/(q2+1/(q3+r2/r3)

 と書ける。
 このとき、

  q1+1/(q2+r2/r1)

 や、

  q1+1/(q2+1/(q3+r2/r3)

 を「連分数」という。

 ラマヌジャンが着目したのは、2の平方根を連分数で表したものだった。

 どういうことか。

 今、2の平方根のうち、0よりも大きいものを、√2 と表す。
 このとき、2の平方根を連分数で表したものは、次のように書ける。

  √2 = 1+1/(2+1/(2+1/(2+1/(2+1/(2+1/…)))))

 √2 を √2/1 とみて、連分数の手順を当てはめ、書き出したものだ。
 この場合、

  q1 = 2
  q2 = 1
  q3 = 1
  q4 = 1
  q5 = 1
    :
    :

 となって、計算は永遠に終わらぬ。

 ここで、√2 の連分数の途中で書き止めたものを、順に書き出していくと、

  1+1/2 = 3/2
  1+1/(2+1/2) = 7/5
  1+1/(2+1/(2+1/2)) = 17/12
  1+1/(2+1/(2+1/(2+1/2))) = 41/29
  1+1/(2+1/(2+1/(2+1/(2+1/2)))) = 99/70
  1+1/(2+1/(2+1/(2+1/(2+1/(2+1/2))))) = 239/169
   :
   :

 となる。

 ラマヌジャンが着目したのは、これら連分数の分母を、順に通分して得られる分数の列だ。

  3/2, 7/5, 17/12, 41/29, 99/70, 239/169, …

 である。
 ラマヌジャンは、これら分数の分子と分母との積が、冒頭の問題のxであることを突き止め、xは、

  x = 3・2, 7・5, 17・12, 41・29, 99・70, 239・169, …

 であるとした。

 この答えは正しい。
 実際、nを 50 以下の整数であるとした場合に、

  x = 6, 35( = 3・2, 7・5)

 であることは、前述した。

 間違いなく、ラマヌジャンは正しい。

 とはいえ――
 疑問は残る。

 なぜ、分子と分母とを掛け合わせてよいのか。
 そもそも――
 なぜ、冒頭の問題のxが、2の平方根の連分数から導かれるのか。

 ラマヌジャンの解法は、不思議であること、この上ない。

(第4編へ)
 2007年1月8日 (月) ラマヌジャンの解法(4)
(第3編より)

 以下に、ラマヌジャンの解法の源になったと思われる発想を、僕なりに推理してみた。
 正否はともかく、それなりに納得できる結論を得たので、ここに記しておく。

     *

 冒頭の問題のxを求めることは、等式:

  x2 = n(n+1)/2  ――【2】

 をみたすxを求めることに等しかった。

 前述の考察の通り――
 等式【2】の右辺の分子は、連続する2つの整数の積である。
 よって、どちらかは偶数で、どちらかは奇数だ。

 先ほどの考察では奇数に着目したが、今度は偶数に着目しよう。
 今、この偶数を 2k と表す。kは1以上の整数とする。

 すると、もう一方の奇数は 2k ± 1 と書ける。
 これらを等式【2】に代入すると、等式:

  x2 = k(2k ± 1)  ――【3】

 を得る。

 ここで、等式【2】の右辺の分子に含まれる奇数(mのことである)が、ある整数の2乗であると示したときと類似の考察に入る。

 等式【3】の左辺は整数xの2乗だ。
 よって、kは、ある整数jの2乗であることが必要だ。
 なぜなら、もし、kが、ある整数の2乗でないとすると、2k ± 1 はkを約数にもたねばならぬ。が、kに、いかなる整数をかけても、2k ± 1 になることはなく、2k ± 1 がkを約数にもつことはありえぬ。
 つまり、kは必ず、ある整数jの2乗である。

 よって、等式【3】は、jを用い、等式:

  x2 = j2(2j2 ± 1)  ――【4】

 に書き換えられる。

 さらに、等式【4】の左辺も整数xの2乗であることから、2j2 ± 1 は、ある整数iの2乗になっていることが必要だ。
 よって、等式【4】は、iを用い、等式:

  i2 = 2j2 ± 1   ――【5】

 に書き換えられる。

 よって、冒頭の問題のxを求めることは、等式【5】をみたすjを求めることに等しい。

 おそらく――
 ラマヌジャンは、ここで、

 ――で、あるならば――

 と考えたに違いない。
 等式【5】が要請する条件の内容が、ある条件と同じなのである。
 それは、√2 の連分数から導かれる分数の列、

  3/2, 7/5, 17/12, 41/29, 99/70, 239/169, …

 の規則性だ。

 この分数の列は、次のような規則性をもっている。
 すなわち、

 ――分母の2乗を2倍したものに、1を足すか引くかしたものが、分子の2乗になっている。

 という規則性だ。
(参考:補足【3】)

 実際に、

  22・2+1 = 32
  52・2−1 = 72
  122・2+1 = 172
  292・2−1 = 412
  702・2+1 = 992
  1692・2−1 = 1692
     :
     :

 となっている。
 つまり、

  2、5、12、29、70、169、…

 などの諸整数は、等式:

  i2 = 2j2 ± 1   ――【5】

 をみたすjである。
 しかも、それぞれの右辺の整数は、等式【5】をみたすiだ。

 一方、等式【5】の形に注意し、等式:

  x2 = j2(2j2 ± 1)  ――【4】

 の形をみると、

  x2 = j2i2

 となって、xの2乗は、jの2乗とiの2乗との積とわかる。
 よって、xはjとiとの積とわかり、xは、

  x = 3・2, 7・5, 17・12, 41・29, 99・70, 239・169, …

 と求まる。

 今、nは 1500 以下の整数なので、等式:

  x2 = n(n+1)/2  ――【2】

 より、xは、2乗しても (1500・1501)/2 を越えぬ値とわかる。

 ここで、

  (41・29)2 > (1500・1501)/2

 に注意すれば、xは、

  x = 3・2, 7・5, 17・12

 の3つだけとわかる。

 よって、ラマヌジャンは、労せずして、全てのxを求めた。

 √2 の連分数を熟知していたがゆえに、思いついた解法であろう。
 この連分数から導かれる分数の列、

  3/2, 7/5, 17/12, 41/29, 99/70, 239/169, …

 が頭にあったからこそ、とっさに思いつけた解法ではなかったか。

     *

 ラマヌジャンは、この解法で、冒頭の問題のxを一瞬で求めたという。

 もし、「一瞬で」というのが本当なら――
 ラマヌジャンは、今回の『道草随想』のような考察および計算を、ソラでこなしたことになる。

 並の人間には無理である。
 2007年1月9日 (火) ラマヌジャンの解法・補足【1】
補足【1】

 一方、等式【1】の右辺も、全く同様に、

  (x+n+1)(n−x)/2

 と計算できる。

     *

 等式:

  1+2+3+…+(x−1) = (x+1)+…+(n−1)+n  ――【1】

 の右辺を詳しく書くと、

  (x+1)+(x+2)+(x+3)+…+(n−2)+(n−1)+n

 となる。この値をTとおく。
 Tは、以下のように書いてもよい。

  n+(n+1)+(n+2)+…+(x+3)+(x+2)+(x+1)

 ここで、これら2つの値を加えた値、

  2T
  = (x+1)+(x+2)+(x+3)+…+(n−2)+(n−1)+n
  + n+(n+1)+(n+2)+…+(x+3)+(x+2)+(x+1)

 を考える。
 この 2T について、上段の数と下段の数とを、左端から順に足していくと、答えは全て x+n+1 であり、そのような足し算は、

   (x+1)−n+1 = x−n 回

 だけ行われる。
 よって、

  2T = (x+n+1)(x−n) ⇔ T = (x+n+1)(x−n)/2

 を得る。
 2007年1月9日 (火) ラマヌジャンの解法・補足【2】(前編)
補足【2】

 つまり、求めるxは等式【2】をみたす整数だ。

     *

 等式:

  x2 = n(n+1)/2  ――【2】

 は、偶然にしては、あまりにも美しすぎる結果だ。

 何か、必然があるのだろうか。

 例によって、nが8のときを考えよう。
 このとき、等式【2】の意味するところは、

  62 = 8(8+1)/2

 である。

 今、8つの整数を、数字で書く代わりに、○の数で表すと、

                ○
              ○ ○
            ○ ○ ○
          ○ ○ ○ ○
        ○ ○ ○ ○ ○
      ○ ○ ○ ○ ○ ○
    ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
  ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 となる。
 この配列の左端の○の数が1であり、右端の○の数が8である。
 また、この配列は、

  1+2+3+4+5+6+7+8 = 8(8+1)/2

 を表しているとみることもできる。
 この配列に含まれる全ての○の数が、8(8+1)/2 である。

 このうち、6を◆の数で、7、8を□の数で表すと、

                □
              □ □
            ◆ □ □
          ○ ◆ □ □
        ○ ○ ◆ □ □
      ○ ○ ○ ◆ □ □
    ○ ○ ○ ○ ◆ □ □
  ○ ○ ○ ○ ○ ◆ □ □

 となる。
 ここで、□の配列を、以下のように置き直す。

            ◆
          ○ ◆ □
        ○ ○ ◆ □ □
      ○ ○ ○ ◆ □ □ □
    ○ ○ ○ ○ ◆ □ □ □ □
  ○ ○ ○ ○ ○ ◆ □ □ □ □ □

 この配列は、◆の列について対称であるから、○と□との数が等しいとわかる。
 今、□を、配列は崩さずに上下を逆さまにし、○の上に置き直すと、以下のようになる。

  □ □ □ □ □ ◆
  □ □ □ □ ○ ◆
  □ □ □ ○ ○ ◆
  □ □ ○ ○ ○ ◆
  □ ○ ○ ○ ○ ◆
  ○ ○ ○ ○ ○ ◆

 これは、縦6横6の正方形の配列であり、この配列に含まれる全ての○、◆、□の数が、62 を表している。

(後編へ)
 2007年1月9日 (火) ラマヌジャンの解法・補足【2】(後編)
(前編より)

 以上からわかることは、一般に、

              ◆
            ○ ◆ □
            : : :
        ○ … ○ ◆ □ … □
      ○ ○ … ○ ◆ □ … □ □
    ○ ○ ○ … ○ ◆ □ … □ □ □
  ○ ○ ○ ○ … ○ ◆ □ … □ □ □ □

 のような配列は、◆の列について対称であるから、○の数と□の数とが等しく、かつ、必ず、

  □ □ □ □ … □ ◆
  □ □ □ □ … ○ ◆
  : : : :   : :
  □ □ □ ○ … ○ ◆
  □ □ ○ ○ … ○ ◆
  □ ○ ○ ○ … ○ ◆
  ○ ○ ○ ○ … ○ ◆

 と置き直せる、ということだ。
 実際に、

    ◆      □ ◆
  ○ ◆ □    ○ ◆

 であり、

      ◆        □ □ ◆
    ○ ◆ □      □ ○ ◆
  ○ ○ ◆ □ □    ○ ○ ◆

 であり、
        ◆          □ □ □ ◆
      ○ ◆ □        □ □ ○ ◆
    ○ ○ ◆ □ □      □ ○ ○ ◆
  ○ ○ ○ ◆ □ □ □    ○ ○ ○ ◆

 である。
 しかも、これら配列の縦や横の数は、いずれも◆の数に等しい。

 以上より、等式:

  x2 = n(n+1)/2  ――【2】

 が導かれるのは、必然であったとわかる。
 この場合、◆の数がxを、○、◆、□の数が n(n+1)/2 を表している。

 さらにいえば――
 等式【2】をみたすxが存在しているかどうかは、配列:

                  ○
                  :
              ○ … ○
            ○ ○ … ○
          ○ ○ ○ … ○
        ○ ○ ○ ○ … ○
      ○ ○ ○ ○ ○ … ○
    ○ ○ ○ ○ ○ ○ … ○
  ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ … ○

 が、

              ◆
            ○ ◆ □
            : : :
        ○ … ○ ◆ □ … □
      ○ ○ … ○ ◆ □ … □ □
    ○ ○ ○ … ○ ◆ □ … □ □ □
  ○ ○ ○ ○ … ○ ◆ □ … □ □ □ □

 と置き直せるかどうかの一点にかかっていた。

 いつでも置き直せるとは限らぬ。
 たしかに、配列:

                ○
              ○ ○
            ○ ○ ○
          ○ ○ ○ ○
        ○ ○ ○ ○ ○
      ○ ○ ○ ○ ○ ○
    ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
  ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 は、たまたま、

            ◆
          ○ ◆ □
        ○ ○ ◆ □ □
      ○ ○ ○ ◆ □ □ □
    ○ ○ ○ ○ ◆ □ □ □ □
  ○ ○ ○ ○ ○ ◆ □ □ □ □ □

 と置き直せた。
 が、配列:

            ○
          ○ ○
        ○ ○ ○
      ○ ○ ○ ○
    ○ ○ ○ ○ ○
  ○ ○ ○ ○ ○ ○

 は置き直せぬ。
 例えば、

            □
          ◆ □
        ○ ◆ □
      ○ ○ ◆ □
    ○ ○ ○ ◆ □
  ○ ○ ○ ○ ◆ □

 とみると、

          ◆
        ○ ◆ □ 
      ○ ○ ◆ □
    ○ ○ ○ ◆ □ □
  ○ ○ ○ ○ ◆ □ □ 

 となって、4つの□が足りず、

            □
          □ □
        ◆ □ □
      ○ ◆ □ □
    ○ ○ ◆ □ □
  ○ ○ ○ ◆ □ □

 とみると、

                    □
          ◆         □
        ○ ◆ □       □
      ○ ○ ◆ □ □     □
    ○ ○ ○ ◆ □ □ □   □

 となって、5つの□が余る。
 2007年1月9日 (火) ラマヌジャンの解法・補足【3】(前編)
補足【3】
 それは、√2 の連分数から導かれる分数の列

  3/2, 7/5, 17/12, 41/29, 99/70, 239/169, …

 の規則性だ。

 この分数の列は、次のような規則性をもっている。
 すなわち、

 ――分母の2乗を2倍したものに、1を足すか引くかしたものが、分子の2乗になっている。

 という規則性だ。

     *

 この規則性は、次のように導かれる。

 √2 の連分数の途中で書き止めたものを、順に書き出していくと、

  1+1/2=3/2
  1+1/(2+1/2) = 7/5
  1+1/(2+1/(2+1/2)) = 17/12
  1+1/(2+1/(2+1/(2+1/2))) = 41/29
  1+1/(2+1/(2+1/(2+1/(2+1/2)))) = 99/70
  1+1/(2+1/(2+1/(2+1/(2+1/(2+1/2))))) = 239/169
   :
   :

 となる。
 ここで、

  a1/b1 = 1+1/2 = 3/2
  a2/b2 = 1+1/(2+1/2) = 7/5
  a3/b3 = 1+1/(2+1/(2+1/2)) = 17/12
  a4/b4 = 1+1/(2+1/(2+1/(2+1/2))) = 41/29
  a5/b5 = 1+1/(2+1/(2+1/(2+1/(2+1/2)))) = 99/70
  a6/b6 = 1+1/(2+1/(2+1/(2+1/(2+1/(2+1/2))))) = 239/169
   :
   :

 となるような数列 an、bn を考える。

 今、

  a1/b1 = 1+1/2 = 3/2
  a2/b2 = 1+1/(1+1+1/2) = 7/5
  a3/b3 = 1+1/(1+1+1/(2+1/2)) = 17/12
  a4/b4 = 1+1/(1+1+1/(2+1/(2+1/2))) = 41/29
  a5/b5 = 1+1/(1+1+1/(2+1/(2+1/(2+1/2)))) = 99/70
  a6/b6 = 1+1/(1+1+1/(2+1/(2+1/(2+1/(2+1/2))))) = 239/169
   :
   :

 であるから、

  a1/b1 = 1+1/2 = 3/2
  a2/b2 = 1+1/(1+3/2) = 7/5
  a3/b3 = 1+1/(1+7/5) = 17/12
  a4/b4 = 1+1/(1+17/12) = 41/29
  a5/b5 = 1+1/(1+41/29) = 99/70
  a6/b6 = 1+1/(1+99/70) = 239/169
   :
   :

 である。
 つまり、

  a1/b1 = 1+1/2 = 3/2
  a2/b2 = 1+1/(1+a1/b1) = 7/5
  a3/b3 = 1+1/(1+a2/b2) = 17/12
  a4/b4 = 1+1/(1+a3/b3) = 41/29
  a5/b5 = 1+1/(1+a4/b4) = 99/70
  a6/b6 = 1+1/(1+a5/b5) = 239/169
   :
   :

 である。

(後編へ)
 2007年1月10日 (水) ラマヌジャンの解法・補足【3】(後編)
(前編より)

 よって、数列 an、bn には、漸化式:

  an+1/bn+1 = 1+1/(1+an/bn)  ――【3.1】
  ⇔ an1/bn1 = (an+2bn)/(an+bn)  ――【3.2】

 で表される規則性が予想される。

 ここで、漸化式【3.1】の右辺の形から、an と bn とが互いに素であれば、an+1 と bn+1 とも互いに素であるとわかる。
 今、

  a1 = 3, b1 = 2

 であるから、a1、b1 は互いに素である。
 よって、1以上の任意の整数hについて、ah、bh は全て互いに素である。

 よって、漸化式【3.2】の分子、分母は互いに等しく、漸化式:

  an+1 = an+2bn  ――【3.3】
  bn+1 = an+bn  ――【3.4】

 を得る。
 ここで、実数Rを用い、

  an+1+Rbn+1 = (an+2bn)+R(an+bn)

  ⇔ an+1+Rbn+1 = (1+R)an+(2+R)bn

 を考えることで、Rが、

  1 : R = 1+R : 2+R ⇔ R = ± √2

 をみたすならば、漸化式【3.3】および【3.4】は、

  an+1+√2bn+1 = (1+√2)(an+√2bn)
  an+1−√2bn+1 = (1−√2)(an−√2bn)

 と書き換えられることがわかる。
 これを、

  a1 = 3, b1 = 2

 の下で解き、

  an+√2bn = (3+2√2)(1+√2)n−1
  an−√2bn = (3−2√2)(1−√2)n−1

 を得る
 これらを、an、bn について整理すると、

  an = (1/2)〔(3+2√2)(1+2√2)n−1+(3−2√2)(1−2√2)n−1
  bn = (1/2√2)〔(3+2√2)(1+2√2)n−1−(3−2√2)(1−2√2)n−1

 を得る。
 よって、

  2bn2−an2 = −(−1)n-1
  ⇔ 2bn2+(−1)n−1 = an2

 を得る。

 よって、規則性:

 ――分母の2乗を2倍したものに、1を足すか引くかしたものが、分子の2乗になっている。

 は示された。