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2006年12月31日 (日) |
僕のササヤカな数学人生で(前編) |
20歳になるかならぬかの頃―― これまでの僕の人生で、最も嬉しかったことがあった。
単に「僕の人生で」と言い切ってしまうのは、いささか大袈裟かもしれぬ。 「僕のササヤカな数学人生で」とでも、言い直しておこう。
*
小学校低学年の頃―― 僕は数学(算数)が苦手だった。 3段階評定で、たしか「C」をもらったことがある。
母は心配した。
母は数学が苦手だったらしく、苦労をしたようである。 それでも、学校の成績は、そんなに悪くはなかった。
息子の「C」には慄然としたはずだ。
――いくら何でも酷すぎる!
というわけである。
一方―― 父は数学が得意だった。
父は神経解剖学者である。 神経解剖学は、脳の神経の配線を丹念に追っていく学問である。
数学的な学問とは言い難かったのだが―― なぜか、数学は得意だった。
後年、本人からきいた話によると―― 東京の予備校に通っていた頃には、予備校中で自分しか解けなかった問題というのが、あったそうである。
焦った母は、父をせっつき、僕の数学の勉強を監督させた。 父も数学の大切さはわかっていたようで、イヤな顔をせずに引き受けたようだ。
4 × □ + 3 = 27
のような問題を、延々とやらされて―― 翌日の宿題まで用意された記憶がある。
そんな父に、僕は驚いた。 至極、単純な意味での驚きである。
小学生の頃には、まさか自分の父親が学校の先生より数学ができるとは、思わぬものだ。
父が数学を教えたのは、これが最初で最後であったが―― これが奏功したらしく―― 以後、僕は数学を好んで学ぶようになった。
小学校が終わる頃には、数学で「C」をもらうようなことはなくなった。
中学3年の頃―― 僕が高校入試の幾何の問題を睨んでいると、 「そんなの簡単だろ」 と、父が割って入ってきた。 割って入ってくるなり、一瞬で決定的な補助線を引いてしまった。
父が数学を得意にしていたことは、紛れもない事実だった。
前述の予備校時代の武勇伝をきかされたのは、この頃である。
当時、僕は地元の学習塾に通っていた。 同級生たちは、皆、レベルが高く、僕が数学で一番になるなどは、ありえなかった。
なのに―― 父は東京の予備校で一番だったという。 (その血は受け継いでいない) と、僕は思った。
高校を卒業すると―― 僕も予備校に通うハメになった。 「1年くらいなら通っても損はない」 と、父はいった。 自分も通っているので、大して気には止めなかったようである。
ただし、 「東京の予備校に行け」 といった。
――高いレベルで揉まれてこい。
という意味だったと思う。 自分の経験を基にしての忠告だろう。
が、翌年の受験にも失敗する。
さすがに、息子が、もう1年、通うハメになったときには、不機嫌そうだった。 父をガッカリさせたことが、僕には堪えた。
翌年の初夏―― 予備校で数学の宿題が出た。
ちょっと風変わりな宿題だった。
――辺の長さが等しい正四面体と正四角錐とがある。正四面体の面の1つに正四角錐の側面の1つを重ねると、何面体になるか。
という問題だ。
――答えと証明法とを書いて提出しろ。
という。
――ただの受験数学の問題ではないぞ。
ということだった。
正四面体は4枚の正三角形が合わさって成る。 一方、正四角錐は1枚の正方形を底面に、4枚の正三角形を側面にもつ。つまり、正四面体は4枚の面から、正四角錐は5枚の面から成る。 そのうち、双方の面を1枚ずつ重ね合わせるのだから、
4 + 5 − 2 = 7
で、七面体になりそうだが、さにあらず―― 答えは、
――五面体
である。
(後編へ)
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2006年12月31日 (日) |
僕のササヤカな数学人生で(後編) |
(前編より)
証明は簡単だ。 少し横道が長くなるが、以下に述べよう。
御理解のためには、お手元に立体図を描きながら、お読みになるとよい。
*
まず、正四角錐を床の上に置こう。
底面の正方形の各頂点をA、B、C、Dとし、正四角錐の頂点をOとする。
ここで、頂点Oを通り、辺ABないし辺CDに平行な直線を考える。 このとき、この直線上にあって、かつ頂点Oからの距離が、辺ABないし辺CDの長さ分に相当するような点は、2つ存在する。
今、これら2点をP、Qとする。 このうち、頂点Oに関し、頂点Bと同じ側にある点をPとする。 以下、点Qは無視をする。
このとき、4点O、P、B、Cは四面体を成す。 なぜならば、3点O、B、Cは、正四角錐O-ABCDの側面の1つを成しており、点Pと同一平面上にないことは、明らかだからだ。
よって、5点A、B、C、D、O、Pは、正四角錐O-ABCDの側面に四面体OPBCの面の1つが重なってできた立体を成しているとみなせる。
一方、辺ABや辺CDと線分OPとは、互いに平行であり、かつ長さは等しい。 よって、4点A、B、O、Pや、4点C、D、O、Pは、同一平面上にあって、平行四辺形を成している。
よって、辺PBや辺PCの長さは、辺OPや辺OCや辺ODの長さと、等しくなる。
よって、四面体OPBCは正四面体である。 つまり、正四角錐O-ABCDの側面に正四面体OPBCの面の1つが重なっているとみなせる。 4点A、B、O、Pや、4点C、D、O、Pが、同一平面上にあることより、正四角錐O-ABCDと正四面体OPBCとが合わさってできる立体は、
――五面体
であるとわかる。
*
以上は、僕のオリジナルの証明法である。 「オリジナルの」というのは「文献などをみずに独力で編み出した」という意味だ。 決して、「世界で僕が最初に編み出した」という意味ではない。
が、この証明法は、いたく褒められた。 この問題を出題された先生は、
――この証明法が最も美しかった。
といい、講義の解説に取り入れて下さった。
僕のササヤカな数学人生で最も嬉しかったことというのは―― このことである。
僕は、数学が得意だった父の血を受け継いでいた自分に気が付いた。
(僕も東京の予備校で一番になった) というわけである。
*
このことを―― 僕は、たしか父には伝えていない。
伝えぬうちに、父は他界した。
伝えるべきだったと思っている。 2年目の予備校生活が、決してムダではなかったことを、父にもわかって欲しかった。
他界に際し―― 僕は、父に、
――数学を使って脳の研究に取り組みたい。
と伝えた。
父は神経解剖学者で―― 僕は当時、神経生理学者を目指していた。
解剖学は生物学に近いが、生理学は物理学に近い。
――数学を使って脳の研究をするには、どうしたらいいのか、オレには検討もつかない。
と、父は答えた。
が―― 父の大学の執務室には、数学が駆使された脳科学の本が挟まっていた。 みると、僕が生まれた頃に出版されたものであった。
父も、若い頃には、僕と同じ野心を抱いていたのかもしれぬ。
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2006年12月28日 (木) |
受験数学の問題のこと(前編) |
今、手元に「1」から「6」までの番号が振られたカード、
1 2 3 4 5 6
があるとする。 これら6枚を、上段に3枚、下段に3枚、並べるとする。例えば、
3 6 1 2 5 6 5 4 2 1 4 3 ……
のように、である。
このとき―― どの隣り合う2枚の数字も、右は左より大きく、下は上より大きくなるような並べ方は、全部で何通りあるか――
大学入試センター試験で、何年か前に出題された数学の問題である。 話を簡単にするために、実際の問題を翻案してある。
*
大学入試センター試験は、いわゆる穴埋め式(マークシート方式)だ。 よって、数学では答えの桁数がわかってしまう。
この問題の場合は、答えが1桁であることがわかっていた。 つまり、求める答えは、たかだか9通りであるということがわかっていた。
よって、出題者の意図は、見かけ上は、
――並べ方は全部で何通りあるか、計算せよ。
なのであるが、実際には、
――並べ方は全部で何通りあるか、全て書き出せ。
であったと、いってよい。
以上は、受験テクニックである。 本質的な話ではない。
多少なりとも本質的な話は、といえば―― 並べ方を全てを書き出すときに求められる思考法であろう。
むろん、受験生とて、ただ闇雲に書き出せばよい、というものではない。 余暇にパズルを楽しむ感覚でなら、それでも良いが、受験会場では、そうはいかぬ。 こうした問題に対処するために、受験生は日頃から自分の思考法を研ぎ澄ませてある。
ところが、真に大切なのは、そうした思考法の実践ではない。 そうした思考法を編み出す手続きである。 そこには、単なる受験テクニックを超越した要素が数多く含まれる。
一般に、人が何か物事にあたるときには―― まず、状況をつかまねばならぬ。
冒頭の6枚のカードを並べる問題であれば―― まず、並べ方の規則を、しっかりと頭に入れることだ。 つまり、
――どの隣り合う2枚の数字も、右は左より大きく、下は上より大きくなるような並べ方
とは、どのような並べ方か、ということである。
状況をつかんだら、次は、どこから手をつけるかの判断だ。 この問題であれば、どの数字のカードの配置から考えるか、ということである。
いきなり6枚のカード全てについて考えるのは愚かというものだ。 1枚ずつ狙いを定めて考えるものである。
さて―― どこから手をつけるかの判断が済んだなら、どうするか。
実は、ここが最も大事な点である。
この次はない、ということだ。 即、行動に移す――それが大切である。
実際に手をつけることで、みえてくることがある。 手をつける前に、手をつけた後のことも予測したがるのは、マニュアル人間の習性か過度な理論家の悪癖だ。
以下、冒頭の6枚のカードを並べる問題に限って、話を進める。
*
まずは状況をつかもう。
――どの隣り合う2枚の数字も、右は左より大きく、下は上より大きくなるような並べ方
とは、どのような並べ方か。
例えば、
1 3 5 2 4 6 はよく、
3 1 5 4 6 2
はよくない。
これを一般化すると―― カードの配置を下図のような模式図、
▽ ● ● ● ● △
で表したときに、「▽」から出発し、
右 右 下
と移動し、「△」に到着する場合を考えると―― 通過する番号は、必ず小さい順になっている。 例えば、
1 3 5 2 4 6
であれば、
1→3→5→6
というように――
同様にして、
右 下 右
と移動する場合には、
1→3→4→6
であり、
下 右 右
と移動する場合は、
1→2→4→6
である。
以上からわかることは―― 「▽」から「△」まで移動するルートは全部で3つあり、そのどれを採っても、通過する番号は、必ず小さい順になっている、ということだ。
ということは―― 「▽」は「1」以外にありえず、「△」は「6」以外にありえぬ。 よって、求める並べ方は、
1 ● ● ● ● 6
であるとわかる。
あとは残り4つの「●」に、「2」「3」「4」「5」のカードを並べればよい。 つまり、一見、6枚のカードを考えねばならなかったが、実際には4枚のカードを考えればよかった。
以上が、とらえるべき状況である。
(後編へ)
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2006年12月28日 (木) |
受験数学の問題のこと(後編) |
(前編より)
次に、どこから手をつけるかの判断をしよう。
一般に、何か物事にあたるときには、極端な例から考えるとよい。 今の場合は、4枚のカード
2 3 4 5
の「端」――つまり、「2」ないし「5」のカード――を考える。
「2」を考えてもよいし、「5」を考えてもよい。 ここでは「2」を考える。 つまり、「2」のカードから手をつけると判断する。
あとは行動あるのみである。 実際に「2」のカードの配置について考えてみよう。
1 ● ● ● ● 6
の4つの「●」のうち、「2」が配置されうるのは、下記の2つの「○」しかない。
1 ○ ● ○ ● 6
つまり、
1 ● ● ● ● 6
は、
1 2 ● ● ● 6
もしくは、
1 ● ● 2 ● 6
のいずれかである。 もし、そうでないとすると――つまり、例えば、
1 ● 2 ● ● 6
だとすると――下記の「○」に、1よりも大きく、かつ2よりも小さい数字を配置せねばならぬ。
1 ○ 2 ● ● 6
そのような数字は存在せぬ。
「2」のカードの配置が決まれば、あとは楽である。 まずは、
1 2 ● ● ● 6
について、3つの「●」に「3」「4」「5」のカードを配置する。 下記の「○」に配置されうるのは、「3」「4」「5」のいずれかだ。
1 2 ○ ● ● 6
その各々の場合について、2つの「●」に配置されるカードは、ただの1通りに決まる。 よって、
1 2 3 1 2 4 1 2 5 4 5 6 3 5 6 3 4 6
の3通りである。
次に、
1 ● ● 2 ● 6
について考える。下記の「○」に配置されうるのは「3」のみである。
1 ○ ● 2 ● 6
つまり、
1 3 ● 2 ● 6
としてよい。 このとき、2つの「●」に配置されうるのは「4」「5」のカードしかない。 どちらのカードが、どちらの「●」に配置されてもよいので、2つの「●」に配置されるカードは2通りに決まる。 よって、
1 3 4 1 3 5 2 5 6 2 4 6
の2通りである。
以上を併せると、求める並べ方は、
1 2 3 1 2 4 1 2 5 4 5 6 3 5 6 3 4 6
1 3 4 1 3 5 2 5 6 2 4 6
の5通りであるとわかる。
*
たかが受験数学の問題と侮ることはできぬ。
その思考法を編み出す手続きには、現実の諸問題に当たるときに有効と思われるコツが、幾つか隠されている。
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2006年12月19日 (火) |
キャッシュ・フローは「円・日」か |
飲み会のときに必ず支払い役を買って出る人の話を、おききになったことがあるだろうか?
公認会計士で作家の山田真哉さんが、ベストセラー『さおだけ屋は なぜ潰れないのか?』(光文社新書、2005年)の中で、触れておられる。
ポイントは、クレジット・カードで全員分を支払い、その後、現金で自分以外の分を回収する点だ。 例えば、10人で50,000円分を飲み食いしたときに、クレジット・カードで50,000円を支払い、その後、現金で45,000円を回収する。 銀行口座から引き落とされるのは翌月以降だから、それまでは、45,000円が懐に入るだけで、出ていくお金は一銭もない。
こういう状態を、
――キャッシュ・フローがよい。
というそうだ。
「キャッシュ・フロー」とは「現金の流れ」という意味で、いわゆる損得とは別次元の話である。 なぜなら、損得だけでいえば、支払い役を買って出ようが出まいが、5,000円の支出自体は動かせぬからである。 損得とキャッシュ・フローとは無関係といってもよい。
この話を、僕は、なかなか理解できなかった。 元来、経済や会計には疎い身である。 だから、 (まあ、ムリもないか) と半ば諦めていたのだが―― それでも腑に落ちぬ。
(いったい、どういうことか?) と、その後も、しつこく考えた結果―― 最近になって、ようやく、 (あ、所持金の時間積分のことか!) と思い当たった。
「所持金の時間積分」とは、こういうことである。
例えば、1日目に5,000円を所持していたとしよう。 飲み会の日を11日目として、引き落とされる日を30日目としよう。
まず、支払い役を買って出た場合を考える。 このとき、1日目から30日目までの所持金は、
1日目 5,000円 2日目 5,000円 : : 10日目 5,000円 11日目 50,000円 12日目 50,000円 : : 29日目 50,000円 30日目 0円
となる。 11日目以降が50,000円になっているのは、元々、5,000円を所持していたところに、自分以外の飲み食い代として45,000円を回収したことによる。 また30日目で0円になっているのは、銀行口座からカード支払い分の50,000円が引き落とされたことによる。
一方、支払い役を買って出ぬ場合はどうか。 このとき、1日目から30日目までの所持金は、
1日目 5,000円 2日目 5,000円 : : 10日目 5,000円 11日目 0円 12日目 0円 : : 29日目 0円 30日目 0円
となる。 11日目以降が0円になっているのは、元々、5,000円を所持していたところに、自分の飲み食い代として5,000円を支払ったことによる。
これら金額を全て足すことが時間積分に相当する(より正確には「1日目から30日目までの時間積分に相当する」である) つまり、支払い役を買って出る場合には、積分値は、
5,000+5,000+…+5,000+50,000+50,000+…+50,000+0 =1,000,000円・日
であり、支払い役を買って出ぬ場合は、
5,000+5,000+…+5,000+0+0+…+0+0 =50,000円・日
である。
「円・日」というのは―― 積分値の単位だ。たった今、即興で思いついた。
つまり、
――キャッシュ・フローがよい。
とは、この「円・日」の値が高いことを意味するようだ。
これに対し、いわゆる損得は、30日目の所持金を意味する。 30日目の所持金は、どちらの場合も0円なので、支払い役を買って出ようが出まいが、損得は同じということである。
が、キャッシュ・フローは大いに異なる。 何しろ、100万と5万との差だ。呆れるほどの差である。
もちろん―― 「円」と「円・日」との間にも、呆れるほどの差があることには注意を要する。
「円」は実質的な金額に根差すが―― 「円・日」は日々の支出可能な金額の総計を意味する。 支出の可能性に根差すといったら、よいかもしれぬ。
さて、この「円・日」の概念を、皆さんは、いかがお考えだろうか?
僕は、どうも好きになれぬ。 経済や会計の話としては重要なのだろうが、何となく地に足が付いておらぬ気がして気持ち悪い。 「円・日」よりも「円」に縋って生きるほうが性にあっている。
おそらく―― 商売上手の人々は、生来、「円」よりも「円・日」に敏感であるに違いない。
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2006年11月7日 (火) |
才色兼備の摂政のこと |
2005年3月20日の『道草日記』で、
――洛陽の紙価を高からしむ。
という言い回しに触れた。
当時、僕は高校3年生に現代文を教えていた。 宮城教育大学の2000年前期日程試験に、作家・陳舜臣さんの一文を発見する。
――洛陽の紙価を高からしむ。
は、そこで見知った言い回しだ。 「ベストセラーになる」ほどの意である。
陳舜臣さんの著作に『紙の道(ペーパーロード)』という随筆がある。 いわゆる「絹の道(シルクロード)」が伝えたものは、絹だけではない。紙も伝わった。紙に記された思想や信仰も伝わった。
――絹ばかり気にしてはならぬ。
との思いで書かれた随筆であるらしい。
この随筆を―― 当時、僕は手元に置いていなかった。『道草日記』にも、
――原典を書店に求めたが、みつからない。
と記している。
その後、みつかった。 集英社文庫から1997年に発刊されていた。
良書である。 中国史や中国文化への愛で溢れている。
で―― 先週、その『紙の道(ペーパーロード)』を読んでいたら―― 女傑の名が目に止まった。
トウ綏(すい)という。『紙の道(ペーパーロード)』では「トウ氏」あるいは「トウ太后」と称されている(「トウ」は「登」に「おおざと」――)
中国・後漢の時代―― 第4代・和帝の皇后として歴史の表舞台に登場し、その後、安帝が幼くして即位すると、摂政を務めた。 生まれながらの才女であり、6歳で史書に親しみ、12歳で詩経や論語に通じたという。 16歳で後宮入りした際には、
――姿顔シュ麗にして、絶えて衆と異なり、左右皆驚く。
と形容されるから、紛れもない美少女である(「シュ」は「女」に「朱」――「器量よし」の意――)
この女傑が摂政を務めた間は、廷臣たちも落ち着き、政情は安定したという。
血筋も申し分ない。
祖父はトウ禹(う)という。 後漢建国の功臣で、初代・光武帝の信任が厚く、光武二十八将の筆頭に数えられる人物だ。 光武帝の学友で、誰からも一目おかれる存在であったのだが、何より、光武帝自身が、彼のことを「トウ将軍」と敬称したという。
作家の田中芳樹さんはトウ禹びいきで、
――『三国志演義』の名軍師・諸葛孔明にも劣らぬ大立物――
といった主旨の評を、御自作のあとがきに残されている(『マヴァール年代記3 炎の凱歌』角川文庫、1990年) このあとがきを、僕は高校のときに読み、以後、トウ禹という人物を意識するようになった。
その孫娘が『紙の道(ペーパーロード)』に登場する。 才色兼備の摂政として――である。
この女傑をモデルに、小説を書こうと思っている。 僕は歴史家ではないので、おそらくファンタシー色の強い物語となろう。 背徳的要素も、ふんだんに盛り込みたい。
トウ綏の享年は41―― おそらくは病死であろう。 が、41歳といえば、まだ女の盛りを過ぎてはおらぬ。何やら怪しい最期といえなくもない。立身を極めた美女の末路としては、たまらなく魅力である。
ところで―― なぜ、「紙の道」にトウ綏か。
実は、トウ綏が亡くなった後、政情が不穏となり、その煽りで、あの蔡倫が自殺を強いられているからだ。 蔡倫とは、紙の発明で有名な宦官である。実際には発明ではなく改良であり、それまでの紙を、ほぼ現在の形に仕上げた人物とみられている。
歴史の織目は、かくも壮麗だ。
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2006年9月5日 (火) |
進化論的「闘う美少女」論(前編) |
――なぜ美少女は闘うのか?
この問いについて、ずっと考えている。 はや10年近くになろうか。
ずっと気になっている理由は―― 僕が、「闘う少女」というコンセプトに、並々ならぬ思い入れがあるからだ。
「闘う」というのは―― 例えば、剣や銃や拳などを武器に、悪者や化物などと闘う――ということである。
もちろん、現実の少女は(美少女も含めて)闘わぬ。 闘うにしても、そんな風には闘わぬ。そんな風に闘うのは、物語の中の少女たちだけである。 マンガ、アニメ、映画、小説など――闘う美少女の物語は無数にある。
そうした物語に触れていくうちに、
――なぜ美少女は闘うのか?
という問いに行きついた。 今も、僕の関心事の一つとなっている。
実は―― この問いに答えるのは難しくない。 少なくとも、直接的に答えるのは、難しくない。
鍵となるのは、
――誰が闘う美少女の物語を支持しているのか?
である。
決まっている。男だ。 もちろん、女性も全く支持せぬわけではなかろうが―― 多いのは圧倒的に男であろう。 つまり、
――なぜ美少女は闘うのか?
の答えは、
――男が求めるから――
となる。
では―― なぜ男は闘う美少女を求めるのか。
様々な切り口が可能だ。 今は、ちょっと趣向を凝らしたい。 自然科学的に考えてみよう。進化生物学に立脚するのだ。
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次のような書籍がある。 『人はなぜレイプするのか――進化生物学が解き明かす』(望月弘子訳、青灯社、2006年)―― 人を喰ったようなタイトルだが、著者らは大真面目だった。
ランディ・ソーンヒル、グレイブ・パーマーという二人の学者が、著者である。 共にアメリカの男性で、それぞれ進化生物学、人類学が専門らしい。 二人は、
――なぜ男は女をレイプするのか?
との問いに、
――養育投資に男女差があるから――
と答える。 それが、進化生物学によって導かれた答えである、と―― 明快な返答だ。
進化生物学とは、ダーウイン以降の進化論を拠り所に、生命の来し方を紐解く学問だ。 その立場によれば、我々ヒトも進化の原理から逃れられるものではない。
進化の原理の中核は、
――自然淘汰
である。 この原理が、生物種としてのヒトに残した影響は、計りしれぬものがあったろう。 この原理が、我々の遺伝情報に刻み込んだものは、我々が子孫を残すのに有利に働いたに違いない。そして、今も有利に働いているに違いない。 それら遺伝情報の一部は、ヒトの生物的要素はもちろん、心理的ないし社会的要素に幅広く反映されている可能性がある。
『人はなぜレイプするのか』の著者らは、レイプを、そうした自然淘汰の悪しき副産物として捉える。 レイプの進化的側面を無視すれば、レイプを減らすことはできず、むしろ増やすことになりかねぬと、警告する。
(後編へ)
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2006年9月5日 (火) |
進化論的「闘う美少女」論(後編) |
(前編より)
本書を一読し、 (なるほど――) と思った。
重要な論点である。 ヒトが生物種の一つであることを重く受け止めるならば、避けては通れぬ論点だ。
そして、こうも思った。 (ここに答えがあったか――) と―― 「答え」というのは、
――なぜ美少女は闘うのか?
という問いへの答えである。
*
以下、著者らの立場を援用する形で、
――なぜ男は闘う美少女を求めるのか?
について考えたい。 その答えは、
――なぜ美少女は闘うのか?
の問いと容易に結びつこう。
ポイントは2つある。 「闘う」と「美少女」とだ。
第1点――「闘う」について――
男からみて「闘う少女」は「闘う男児」を妊る可能性が高い。 「闘う少女」が生んだ「闘う男児」は、将来の生存競争に打ち勝ち、より多くの子孫を残す。将来の伴侶を求める上で、同性の競争相手を打ち負かす力量にも優れていると考えられるからである。 以上より、「闘う少女」に性的魅力を覚える男は、子孫を残すのに有利であるとみなせる。
第2点――「美少女」について――
男からみて「美少女」は「美しい女児」を妊る可能性が高い。 「美少女」が生んだ「美しい女児」は、将来の生存競争に打ち勝ち、より多くの子孫を残す。将来の伴侶を求める上で、同性の競争相手を出し抜く器量に優れていると考えられるからである。 以上より、「美少女」に性的魅力を覚える男は、子孫を残すのに有利であるとみなせる。
以上を、まとめれば、こうだ。 つまり―― 「闘う美少女」を求める男は、「闘わぬ美少女」や「闘う少女」や「闘わぬ少女」を求める男よりも、より多くの子孫を残す可能性が高い―― その結果、現存する男は「闘う美少女」を求める男ばかりで占められるようになった―― それが、
――なぜ男は闘う美少女を求めるのか?
という問いへの答えである。
なお―― 「美少女」が「美女」でない理由は、こうだ。
――「少女」のほうが「女」よりも生殖チャンスが多いから――
つまり―― 「少女」を求める男は、「女」を求める男よりも、より多くの生殖チャンスに恵まれる可能性が高いということである。
*
以上の主張を、
――進化論的「闘う美少女」論
と呼ぼう。 もちろん、この主張の妥当性は、進化生物学の立場にかかっている。
僕は進化生物学の立場が絶対的に正しいとは思わぬ。 もし、進化生物学に立脚するならば、以上のようなことがいえそうだ――という程度の話だ。
また、進化生物学的に妥当な主張だからといって、社会道徳的にも妥当な主張だと言い張るつもりもない。 この前提は『人はなぜレイプするのか』の著者らも同じである。
歪んだ男の性的欲望を擁護するものではない。
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2006年6月21日 (水) |
美しい女性をみていると |
美しい女性をみていると不安になる。
子供の頃から何となく、そんな傾向を自覚していたが―― 三十路が近付いた頃から、一層、強く自覚するようになった。
(なぜだろう?) と考え込んだ。
容易には答えを割り出せなかった。
最近になって―― ようやく、わかってきた。
なぜ不安になるのか?
答えは、それなりに無気味である。
――壊したくなるから――
*
――所有の究極の形式とは何か?
との議論を御存じだろうか?
詳しくは知らぬ。 が、議論の断片を聞き、愁眉が開いた。
(ああ、なるほど――) と思った。
*
何かを手に入れたいとき―― どうすれば手に入れたことになるか――
例えば、砂浜に落ちている貝殻であれば、家に持ち帰って所有することができる。
では、野山に咲く一輪の花はどうか――これは持ち帰るわけにはいかぬ。 マナー違反という理由を持ち出すまでもなく、このようにして持ち帰った花は、決して真の意味では所有できぬ。 持ち帰った花は、いずれは萎れて枯れ落ち、朽ち果てる。 花の美を所有することは容易ならざる仕儀である。
だから―― 壊す。
美しいもの目にし、それを、どうしても手に入れたいと思ったら―― 自分の手で、自分の目の前で、その美しいものを滅茶苦茶に破壊する―― それが所有の究極の形式であるというわけだ。
すぐに、おわかりのように―― このような「所有の究極の形式」を実際に適用したら、大変だ。 とりわけ美しい女性に適用したら惨事である。
刑法違反で厳罰に処せられるは、もちろんのこと―― 自分が人間ではなくなった恐怖にも震えねばならぬ。「美しい女性」や、その家族に、取り返しのつかない損失を与えた恐怖にも震えねばならぬ。
つまり―― 僕が美しい女性をみて感じる不安とは―― そのような恐怖に根差したものであろう。
*
このことが明示的に語られることは意外に少ない。 危険なことである。
男は案外こうした不安に無自覚なことが多いものだ。
時折、痛ましい事件の報道に触れるのは、そうした不安に無自覚な男が性の衝動に突き動かされるからである。
*
美しい女性をみていると不安になる。
だから―― そのような女性は、みたくない。
が、みれば心が洗われる。 生きる活力が湧くこともある。
男とは、実に身勝手な生き物である。
美しい女性諸氏は、くれぐれも御油断なきように――
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2006年5月13日 (土) |
少女が銃を構える仕草 |
ここ5、6年―― あるものに魅せられている。
――少女が銃を構える仕草に――
である。
「魅せられる」というのは、少々、大げさかもしれぬ。
――何となく気になる。
といった程度である。
なぜ、気になるのか?
例えば、「少女」が「少年」だったら何とも思わぬ。
――そんなもの振り回すんじゃない。
などと、いいたくなる。 「少年」が「青年」でも同じである。「青年」が「中年」でも「老人」でも同じである。 男であろうと女であろうと関係はない。
いや―― 女なら許せるか。 少なくとも、男よりは魅せられる。 少女よりは見劣りするけれども――
これは、どうしたことか? 不可解である。
たぶん、僕が男であるということと無縁ではなかろう。 かつては少年だった。今も、どこかに少年が残っている。 だから、少年が銃を構えても、特に魅せられることはない。少年が男全般であっても、理屈は同じであろう。
男にとって最も遠い存在は少女だ。 だから、銃を構える仕草に魅せられるのかもしれぬ。
一方、別の理屈もある。
――男は皆、銃をもっている。
という理屈である。 もちろん、生殖器のメタファーである。
こういう論点は好かぬ。 妙に精神分析的で、フロイトの亡霊をみる思いがする。気分が悪い。
が、これも一理あろう。
男は銃をもっている。生理の銃である。 だから、新たに、もう一つ銃を構えたところで、新鮮味はない。既視の風景にすぎぬ。
が、女は違う。生理の銃など持たぬ。 それゆえに、新鮮である。 女が少女であれば、なおさらだ。既視の対極にあるといえる。
もちろん―― 以上は虚構の世界の話である。
現実の世界は違う。 少女が本当に銃を構えていたら、たぶん悲しくなるだろう。
――そんなことしちゃいけない。
などと口走るかもしれぬ。
もし、将来、僕に娘ができ、その娘が銃を構えたら―― たぶん、胸が潰れる想いに違いない。
が―― 虚構の世界ならいい。素直に嬉しく思うに違いない。 銃を映画やTVの中で構える分には大歓迎なのだ。
このお気楽は、どこからくるのか?
現実の少女なら悲しい。 虚構の少女なら嬉しい。
まったくもって、お気楽である。
結局―― ひとつの定型句に収束するだけかもしれぬ。
――少女は男にとっては永遠に謎である。
の定型句である。 これ以外の着想は見当たらぬ。
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2006年4月29日 (土) |
結婚の装飾性 |
最近、結婚について考えるようになった。 といっても自分の結婚ではなく――結婚という営みの一般的特性である。
このことは、10代の頃から、ずっと考えている。 僕は小説書きなので、とりわけ頭を離れない。 小説を書く際に、登場人物が結婚をしているかいないかで、描き方が変わってくるからである。
*
結婚というのは、
――ずっと一緒にいること
だと、僕は思っている。 つまり、結婚を望むとは、
――ずっと一緒にいたいと思うこと
である。
*
芸能人や文化人同士の離婚報道が後を断たない。 当人たちの挙げる理由の多くは、
――すれ違い
である。 一緒にいる時間がもてなかったということだろう。
僕に結婚の経験はない。
が、この「すれ違い」がバカにならないことは、僕にもよくわかる。 とりわけ、夫婦が家庭以外にも、それぞれに大事なものを抱えていれば、なおさらであろう。
とはいえ―― 解せぬ。
そもそも結婚とは「すれ違い」を減らすための知恵ではなかったか。 結婚しても「すれ違い」が減らせないのでは意味がない。最初から結婚など必要なかったということである。
これぐらいのことに、なぜ気付かないのか? 結婚前に結婚後の生活を落ち着いて考えれば、わかりそうなものである。
それでも―― 人は結婚をする。 「すれ違い」が容易に想像できるのに、つい結婚をしてしまう。
かくいう僕でさえ、「すれ違い」を前提に結婚してしまいそうになるときがある。
なぜか?
ファッションとしての結婚である。 結婚という営みがもたらす私生活の装飾性である。
この装飾性が看過しがたい魅力を備えている。 かなり厄介である。
実際に自分が結婚しているかどうかは別にして―― あるいは、実際に結婚を望んでいるかどうかは別にして――
――やっぱり結婚してるほうが、してないより格好いいし――
と感じる人は、意外に多い。 少なくとも、そう感じない人よりは多そうである。
ある程度は普遍的な印象といえよう。
*
結婚がもつ装飾性の根源について十分に考え詰めたことはない。 が、
――ある年齢に達したら、人は、とりあえず結婚するものである。
という社会的総意が、何らかの影響を与えていることは間違いあるまい。 おそらく、何千年も前に形成された社会的総意である。
「すれ違い」を理由に離婚する夫婦は、この装飾性に抗いがたい魅力を覚えて結婚したに違いない。 頭のどこかでは「すれ違い」になるとわかっていながら、つい結婚してしまう―― そういうことではなかったかと思う。
もちろん、恋愛に特有の衝動も一役、買ってはいるだろうが――
*
繰り返す。 僕に結婚の経験はない。
単なる理想論かもしれない。
が―― 結婚の基本は、
――いつも一緒にいたいと思うこと
あるいは、
――いつまでも一緒にいたいと思うこと
だと思う。
結婚の装飾性は、たしかに抗いがたい魅力を含んではいるけれども―― けだし、虚飾以外の何物でもない。
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2006年4月27日 (木) |
ブラック・マル太、参上! |
自分でアレンジした「どっちバトン」に答えることとする。
ただし―― 回答はブラック・マル太仕様で――いつものマル太ではない。
多分、そのほうが面白い。
*
◆どっちが好き? →バカ or アホ
アホ (「アホの坂田」が「バカの坂田」では可哀想だ)
◆どっちが好き? →月 or 太陽
月 (月のような女が好みである)
◆どっちが好き? →自然科学 or 古典芸能
古典芸能 (現代の自然科学は人の心を痩せ細らせる)
◆どっちが好き? →恋 or 愛
恋 (後先を考えずに突っ走れる)
◆恋の告白の後、OKされたら? →相手の真意を疑う or 信じる
信じる (一度でもOKしたが運の尽き!)
◆好みでない人に恋を告白されたら? →はぐらかす or 明確に断る
明確に断る (変に気をもたせては悪いからな)
◆では、愛を告白されたら? →はぐらかす or 明確に断る
はぐらかす (できれば「キープさん」にしてしまう)
◆恋人にしてもいいと思うのは? →同性だが好きなタイプ or 異性だが嫌いなタイプ
異性だが嫌いなタイプ (すっかり篭絡し、たっぷりイタぶってくれるわい!)
◆どちらかを恋人にしなくてはならない――どっち? →ひたすら憎い人 or どうでもいい人
ひたすら憎い人 (恨みを晴らすチャンスとみる)
◆エッチをするなら? →屋内で穏当に or 屋外で過激に
屋外で過激に (TVカメラを持っていく)
◆屋外でエッチをするなら? →海 or 山
海 (水着姿で過激プレイを敢行――)
◆どちらかというと? →愛したい or 愛されたい
愛したい (骨の髄まで愛してやる)
◆どちらかというと? →虐めたい or 虐められたい
虐めたい (身も心も、とろけるまで虐めてやる)
◆好きな人の前で太腿が猛烈にかゆくなった。 →こっそりかく or 我慢し続ける
こっそりかく (私の勝手であろうが!)
◆好きな人が猛烈に太腿をかきだした。 →みてみぬふり or 何らかのリアクション
何らかのリアクション (満面の笑みで応えてやろう、相手が私好みの女なら――)
◆大人だと感じる飲み物は? →高価な火酒 or 愛人の体液
愛人の体液 (これに決まっておろうが!)
◆どっちの人生を歩みたい? →映画監督 or 映画俳優
映画監督 (指図されるのは性にあわぬ)
◆生まれ変わるなら? →竜 or 猫
竜 (街の1つや2つ焼き払ってくれよう!)
◆さぁ一緒に行こうと言われた――ついていくのは? →小悪魔 or 堕天使
堕天使 (背負っている世界が広くて面白そうだ)
◆生活に必要なのは? →冒険 or 平穏
冒険 (平穏は退屈である)
◆活動に必要なのは? →理念 or 資金
理念 (カネは後からついてくる)
◆カレーに入っていないとイヤなのは? →カレーのルー or 作った人の誠意
作った人の誠意 (誠意のない料理は食うに値しない)
◆愛している人が料理を作ってくれた。凄くまずい。 →我慢して最後まで食べる or 適当な理由をみつけて残す
適当な理由をみつけて残す (自分の精神衛生は大切である)
◆愛している妻・夫と久しぶりの再会――してほしいのは? →弾ける笑顔・劇的な抱擁 or 落ち着きを払った振る舞い
落ち着きを払った振る舞い (久しぶりに会ったくらいでピーキャー騒ぐでない)
◆離婚調停中の妻・夫に久しぶりの再会――してほしくないのは? →罵詈雑言 or 徹底無視
罵詈雑言 (見苦しい限りである)
◆浮気現場を確認――妻・夫を殺すなら? →斬殺 or 絞殺
絞殺 (最期は色っぽく逝かせてやろう)
◆愛する妻・夫に告白されて困るのは? →借金 or 犯罪
借金 (トバッチリをくうのは我慢ならぬ)
◆自分の娘に絶対にやってほしくないのは? →海外で売春婦 or 国内でAV女優
海外で売春婦 (娘の躰が心配だ)
◆地球最後の日――会うなら? →父母・兄弟姉妹 or 妻・夫・子供・孫
妻 (その気になる女以外は、めとらぬ)
◆死ぬ前にいうとしたら? →「絶対に生まれ変わってやる」 or 「この世は、もうたくさんだよ」
「もうたくさんだよ」 (未練は見苦しい)
◆どっちが好き? →美女・美男 or 美少女・美少年
美少女 (美女も嫌いではないがな)
◆惨たらしく殺してみせるなら? →美男・美女 or 聖女・聖人
美女 (美女が聖女なら、なおよい)
◆殺されてもしょうがないと思うのは? →自分のせいで惨い目に遭っている美少女・美少年 or 自分が日頃から心酔している人格者
美少女 (その前に十分に元は採らせてもらうがな、ふ)
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2006年3月23日 (木) |
失点率は面白い(前編) |
ワールド・ベースボール・クラシック(World Baseball Classic, WBC)が、野球の新境地を開拓した可能性がある。
*
今回のWBCで、日本は2次リーグを1勝2敗で勝ち抜けた。 2次リーグの勝敗表は以下の通りである(左端チームの勝利を○で、敗北を●で表記)
韓国 日本 アメリカ メキシコ 韓国 ―― 2−1○ 7−3○ 2−1○ 3勝0敗 日本 1−2● ―― 3−4● 6−1○ 1勝2敗 アメリカ 3−7● 4−3○ ―― 1−2● 1勝2敗 メキシコ 1−2● 1−6● 2−1○ ―― 1勝2敗
日本は1勝2敗でアメリカやメキシコと同じ戦績にも関わらず、このリーグを勝ち抜いた。 その理由は何か。
――失点率
である。 失点率とは、総失点を守ったイニング数(回数)で割ったものである。
*
まず、各チームの失点を加算する。
韓国 5 日本 7 アメリカ 12 メキシコ 9
である。
韓国は3勝0敗の成績なので、即、勝ち抜けとなる。 残る3チームのうち、どこが勝ち抜けるべきか。
韓国戦をなかったことにし、失点を加算しなおすと、
日本 5 アメリカ 5 メキシコ 7
である。
失点率を求めるには、まずイニング数を確認する必要がある。 3チームのイニング数は、
日本 17+2/3(3分の2) アメリカ 17 メキシコ 18
である。 よって、失点率は、
日本 0.28 アメリカ 0.29 メキシコ 0.39
である(有効数字2桁)
失点率の意味するところは、
――1イニング当たりの失点
である。 よって、日本はアメリカよりも、1イニング当たり0.01点だけ失点が少なかった――だから、2次リーグを勝ち抜いたということになる。
ところで―― 日本もアメリカもメキシコも、皆、平等に2試合を戦っている(韓国戦を含めれば3試合) どのチームにもコールド負けはなく、2試合を9イニングスで戦っている。
なのに、なぜイニング数がバラついているのか。 なぜ、3チームとも18ではないのか。 そもそも、なぜ日本のイニング数は分数なのか。
原因は野球の先攻・後攻ルールにある。
*
まず、アメリカのイニング数が17回であることを確認する。 アメリカのランニング・スコアは以下の通りである。
日本 1 2 0 0 0 0 0 0 0 アメリカ 0 1 0 0 0 2 0 0 1
アメリカ 0 0 0 1 0 0 0 0 0 メキシコ 0 0 1 0 1 0 0 0 x
守ったイニング数を勘定するには、相手チームの欄に着目すればよい。 アメリカは日本相手に9イニングス守って3失点、メキシコ相手に8イニングス守って2失点である。
メキシコの段の右端の「x」は、アメリカが9イニング目を攻めていないという意味である。
野球では、一般に、先攻チームが負けているときは、9イニング目は守れない。リードを許したままで9イニング目の裏を守っても意味がないからである。 が、後攻チームは異なる。9イニング目の表を守り、裏の攻めに望みを託せる。
つまり、先攻チームは負ければ通常、守るべきイニングを1つ奪われることになる。この点において、先攻チームは後攻チームより不利なのである。 後攻チームは勝とうが負けようが関係はない。守るべきイニングが奪われる可能性はない。
メキシコ戦では、アメリカは先攻だった。
*
次に、日本のイニング数が 17+2/3 であることを確認する。 日本のランニング・スコアは以下の通りである。
日本 1 2 0 0 0 0 0 0 0 アメリカ 0 1 0 0 0 2 0 0 1
日本 0 0 0 4 1 0 0 0 1 メキシコ 0 0 0 0 0 0 0 1 0
アメリカ戦のランニング・スコアは前掲のものと同じである。 ところが、これは本来、以下のように表記する。
日本 1 2 0 0 0 0 0 0 0 アメリカ 0 1 0 0 0 2 0 0 1x
アメリカの段の右端の「1x」は、9イニング目が最後まで行われずに、日本が1失点を喫した、という意味である。 アメリカは、2死から、いわゆるサヨナラ・ヒットを放っている。このため、日本は9イニング目の裏を、3分の2しか守れなかった。 ところが―― これが、日本の勝ち抜けの主因である。
――3分の2しか守れなかった。
ではなく、
――3分の2を守れた。
が正しい。
(後編へ)
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2006年3月23日 (木) |
失点率は面白い(後編) |
(前編より)
もし、日本が、9イニング目の表が終了した時点でリードを許していれば、その裏を守る機会は奪われていた。 実際はリードを許していなかったので、奪われずに済んだのである。
アメリカは先攻だったメキシコ戦では守る機会を奪われ、後攻だった日本戦では守る機会を奪い切れなかった。 それが、アメリカの敗退の主因である。
*
この失点率というルールは、開催国のアメリカが導入を決めたらしい。 総失点とせずに、失点率とした点が面白い。
これまで、野球に先攻・後攻の有利・不利はないとされてきた。 が、失点率を考慮する限り、明らかに先攻が不利となる。守る機会を奪われ、失点率が増加する可能性があるからだ。
このことは、今回のWBCのような短期リーグ戦を組む場合には、真剣に考慮されるべきであろう。
少なくとも1次リーグでは、各チームの先攻・後攻の試合数を同じにする必要がある。
もう一つ着眼すべきは延長戦の扱いである。 延長戦を闘えば、守る機会が増える。守る機会が増えれば、失点率は減少しうる。 例えば、18イニングスで10失点のチームは、延長2イニングスを含む20イニングスで11失点のチームに劣ることになる。 つまり、局面によっては、9イニングスで勝たずに、延長戦に持ち込んで勝ったほうがよいということになる。
これは、おかしい。 9回裏、無死満塁のチャンスが巡ってきても、場合によっては敢えて無得点に終わらせなければリーグを勝ち抜けない、というのでは、明らかに不合理である。
延長戦での勝利は通常の勝利よりも不利なものとしなければならない。 例えば、延長戦の守備機会は9回までの守備機会と打ち消し合うというルールを導入してはどうか。 延長戦を闘えば闘うほど、失点率は増加することになる。
*
いずれにせよ―― 失点率は面白い。
前述の問題点を解決すれば、野球の短期リーグ戦に光明をもたらしうる。 野球の短期リーグ戦では、納得しがたい波乱に興醒めすることが多かった。そうした欠点が改善されるのではないか。 失点率の低いチームは、ミスを減らし、確実に得点しようとする良質な野球の傍証となりうる。
失点率が、今後の野球に新たな可能性をもたらすかもしれない。
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2006年3月8日 (水) |
強風にミニスカート |
今日の仙台は風が強かった。 風上に向かっては歩けないほどである。
実際、小柄なおバアさんが吹き飛ばされていた。
いやいや―― ホントに吹き飛ばされていたのでなくて―― 強風に背中を押され、まるで吹き飛ばされるように小走りを強いられていた――ということである。
このような強風の日であるにも関わらず―― なぜかミニスカートの女性が歩いていた。
膝上20センチ―― 下手をすると30センチだったかもしれない。
スカートの裾が強風にあおられ、ヒラヒラと舞っていた。
ほんの30秒も凝視していたら、確実にスカートの中身がみえたはずである。 凝視しなかったけれど――
*
かかる強風の日に、なぜミニスカートなのか?
解せぬ。 まったく解せぬ。
――ミニスカートをはく女なんてのは、結局は中身をみせたいのよ。
と断言する女性は少なくないのだが―― その度に、僕は反論してきた。
――ホントにみせたいなら、スカートをはかないはずだ。
と――
が、今日のような日に、わざわざミニスカートをはく女性については、さしもの僕にも弁護は難しい。 あんなにスカートの裾が揺れていたのでは、
――スカートをはかない。
に匹敵しうる。
いったい、いかなる心境であろうか? やはり中身をみせたかったのであろうか?
それとも―― 単に間違えただけ?
玄関を出て、
――うわぁ! しまった! こんなに風が強いとは!
と後悔したが、時間がなかったので、そのまま出かけてきた、ということ?
間違いなら、ともかく――
ホントに中身をみせたかったのなら、そのような女性の心理には興味がわく。 小説のネタになる。
――その女は、なぜ中身をみせたがったのか?
である。 そそられるテーマである。
もちろん、「そそられる」のは男である。 下品で下世話な男である。
想定される読者は、あくまで男だ。 女性に読んでいただきたいとは思わない。
ただし―― その辺の事情を承知で読んでいただけるなら、喜んでおみせするが……。
そんな女性、おられるかな?
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2006年2月22日 (水) |
真に価値のある受験指導とは |
大学入試の数学を指導するようになってから11年が経つ。
指導は難しい。 今もって汎用性の高い指導方法を見い出せないでいる。
難しさの根幹は、
――生徒さんに、どこまでの洞察を求めるか。
である。
例えば、
――三角形が、半径1の円に内接するときに、面積の最大値を求めよ。
という問題を教えるとする。
勘のいい生徒さんなら、 「三角形が正三角形になるときが最大でしょ」 といって、スラスラ解いてしまう。 もちろん、
――半径1の円に内接する正三角形の面積を求めよ。
という問題が、スラスラ解けることが前提である。
実際、三角形の面積が最大になるのは正三角形のときである。 だから、答えはあっている。
が、この問題の本質は答えを出すところにはない。 出題者は、以下の証明問題の存在を暗示している。
――ある円に内接する三角形のうち、面積が最大となるものは、正三角形であることを示せ。
生徒さんは、その存在に自発的に気付かなければならない。
数学では、ここが最初の難関である。 いかに、この種の証明問題の存在に気付くか、である。 指導者側からいえば―― いかに気付いてもらうか、である。
気付いてもらった後に、さらなる難関が待っている。 この証明を、どうやって実行してもらうか、である。
実は、証明の実行自体は難しくない。 例えば、次のような筋道で容易に証明できる。
1)円に内接する任意の三角形の面積は、この三角形と一辺を共有し、かつ、この円に内接する二等辺三角形の面積よりも、必ず小さくなることを示す。 2)円に内接する二等辺三角形の面積は、底角および頂角が60度のときに、最大となることを示す。
「低角および頂角が60度の二等辺三角形」とは正三角形に他ならない。
繰り返すが―― この証明の道筋を追うことは、さほど難解ではない。
どんな生徒さんも、十分な時間を割き、丹念に説明してあげれば、たいていは理解してくれる。
が、この証明方法を自力で編み出すことは至難だ。 なぜ二等辺三角形や角度を持ち出すのか、である。
その発想を至難と感じる生徒さんが相当数、存在する。
そして、そのような生徒さんには厳しい現実が待っている。 2、3年かけて十分に勉強しても、ついに自力で編み出せるようにはならない、という現実である。
そういう生徒さんへの対応が最も頭の痛い問題なのだ。
諦めるのは簡単である。 (世の中には、できるヤツとできないヤツがいるんだ!) と割り切り、 「いいよ、できないなら――他の教科で頑張んな」 と突き放すことである。
こうした対応が良い結果を生むことは珍しくない。
が、これでは指導者の存在意義が問われよう。 例えば、事情があって、どうしても自分の学力より上の大学に合格しなければならないような生徒さんにとっては、意味をなさない指導である。
指導者の存在意義など、初めから存在しないとする考えもある。 大学入試の指導には一義的な価値がない、ということである。 一度は優秀とみなされた指導者で、離職する人が後を断たないのは、そのためであろう。
そうなのかもしれない。 世の中には重要なことが山ほどある。
真に価値のある受験指導とは、入試の成功への拘泥から引き離すことではないか。
例えば、東大に合格するためだけに日夜、努力しているような生徒さんに、いかに、それ以外の事にも価値を見い出してもらうか、である。
大切なことである。
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念のために、申し添える。
――ある円に内接する三角形のうち、面積が最大となるものは、正三角形であることを示せ。
の証明は難しくないと述べた。
たしかに、難しくはない。
が、難しいと感じても、不思議はない。 むしろ、難しいと感じるほうが、まともであろう。
大学入試の数学では、基本となる知識体系や思考手法、着眼手法がある。 「難しくない」とは、これら体系や手法に特別に慣れ親しんでいる人にとっては、という意味である。
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2006年2月17日 (金) |
猥褻の原理 |
猥褻(わいせつ)の原理について考えている。 猥褻は、いかなる過程で生じるのか、ということである。
鍵となるのは、人間性と物体性とのせめぎ合いだと思っている。
例えば、男が女性と逢うときに―― 男は女性の姿に、人間性と物体性との両面を併せ見ている。
――私は人間よ! 物体じゃないわ!
との女性の抗議は、もっともではあるけれども―― 残念ながら―― 男が女性を、ときに物体とみなすことは、否定しようのない経験的事実であるように思う。
もちろん、物体とみなさぬこともある。
例えば、同僚の女性を物体とみなそうものなら、たちまち職場に不和をきたすに違いない。
では―― 猥褻は、いかなる過程で生じるのか。 例えば、男が女性を物体とみなすときに、猥褻は生じるのだろうか。
*
そんなに単純なものでもないと、僕は考えている。
例えば、裸体画のモデルが、よい例である。
純朴な小・中学生ならいざ知らず―― 普通の男が、裸体画のモデルに徹している女性をみて、猥褻を覚えることは、まずあるまい。 が、モデルに徹する女性をみれば、少なくとも動作が禁じられているという意味で、これ以上ないくらいに、物体的ではある。
反対の好例もある。
例えば、ある男に、いつも仕事でペアを組んでいる女性があるとする。 仕事の癖は互いによくわかっている。互いに短所を補い合い、長所を伸ばし合い――実に人間味あふれる信頼関係を築いているとする。 男は女性の人間性を強く意識し、猥褻とは無縁の存在であるとみなしている。 が、あるとき―― 何気なく目にしたスーツごしの腰のくびれに艶を感じる。 それとき、男は女性の姿に、強く猥褻を意識する。
女性の腰がくびれているのは見慣れた光景である。 そこに女性の物体としての特性を見い出すのは大袈裟であろう。 少なくとも、物体性と呼ぶには、あまりにもささやかな物体性である。
にもかかわらず、男は女性に、強く猥褻を意識する。
これは、どうしたことか。
*
男が女性と逢うときに、男は女性の姿に、人間性と物体性とを併せ見ると述べた。
猥褻を考える上で問題になるのは、両者の比率ではない。 両者の比率の時間変化である。
人間性と物体性との比率が、1:9 だろうが 0.1:9.9 だろうが、関係はない。 5:5 が十分に短い時間で 3:7 になったときに、猥褻が生まれる。
5:5 が1時間で 4:6 になるよりは―― 1秒で 4.9:5.1 になるほうが―― 数段、強烈な猥褻を生む――そういうことである。
*
人が人にみる人間性と物体性との比率は、時々刻々と変化していく。 その時間変化を「せめぎ合い」と称した。
人間性と物体性とのせめぎ合いは、男からみた女性に限ったものではあるまい。 女からみた男性にも当てはまるとみるべきであろう。
が、人間性と物体性との比率のせめぎ合う領域は、双方で異なるかもしれぬ。 例えば、男からみた女性の比率は、 4:6 くらいでせめぎ合っているが―― 女からみた男性の比率は、7:3 くらいでせめぎ合っている―― という風に、である。
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2006年2月15日 (水) |
人々が生きていくということは(前編) |
通りを歩いていたら、男の人が倒れている。 傍にはサラリーマン風の男性が付き添っていた。
真っ昼間である。 (こんな時間に酔っ払いか?) と思って、さっさと通り過ぎようとしたのだが―― どうも様子がおかしい。
そのとき、近くの硝子戸が開き、制服姿の若い女性が現れて、 「救急車を呼びますか?」 といっている。
それで、急患だとわかった。
それでも、通り過ぎようかと一瞬、踵を返しかけたが―― 踏み止まった。
一応、僕は医師なので――
*
「隣が病院なんですよ。連絡してみます」 制服姿の女性が硝子戸の向こうに消えていった。 そこはホテルだった。
(ニセモノの医者なら、ここにもいますよ〜) と思ったが、もちろん口には出さない。
ちゃんとトレーニングを積んでいない医者なら、いてもいなくても同じである。 仮に、ちゃんとトレーニングを積んでいたとしても、道端で有効な治療を施すのは至難である。
ところは―― その必要はないように思えた。
「どこか痛いところはありますか?」 と訊いてみたが、首を振る。 意識はあって、意思を示すことも可能であった。 重篤な容態にはみえない。
年の頃は6、70代―― 大きな荷物を2つも抱えており、身なりは薄汚れていた。 帽子を目深にかぶって俯せに倒れていたので、顔はみえない。 手の甲は浅黒く、カサカサに乾燥し、まともな血色ではなかった。 みるからに、
――路上生活者
といった風貌である。
よくみると、顔の真下が濡れていた。 嘔吐かと思ったが、違う。
涙である。 俯せに倒れて泣いていた。
多分、悔し涙である。 真に好んで路上生活者に墜ちる人など、いないに違いない。
*
ほどなく―― ホテルの上役と思われる女性が現れ、毛布をかけた。
体をピタリとよせ、腰を落とし、 「大丈夫ですか?」 「痛いところはありませんか?」 「ご家族に連絡しますか?」 などと声をかけていた。
親身な態度だった。 (接客のプロだな) と思った。
僕も見習わないといけない。
*
倒れていた男性は、「ご家族に」というところで、激しく首を横に振った。
――私に家族はいない。
との明瞭なジェスチャーに思えた。
(やっぱりな) と思った。
*
ホテルの隣の病院は休みだった。 救急車を呼ぶことになった。
5分ほどで救急隊が駆け付けた。 「あとは私たちで、やりますから――」 隊長らしき人が告げた。
が―― これからが大変である。
男性は身寄りのない行き倒れの可能性が高い。 そんな急患を喜んで引き取る病院は稀である。
(後編へ)
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2006年2月15日 (水) |
人々が生きていくということは(後編) |
(前編より)
*
医学生時代―― 救急隊につき、実習したことがある。
――病院はね、軽症だと、なかなか引き取ってくれないんですよ。
と、僕を指導した救急救命士は話してくれた。
これは本当である。
僕はニセモノの医者だが―― 稀に急患を引き取る側に回ることがある。 たしかに、うかつに引き取ると大変な目に遭う。 引き取りには慎重にならざるをえない。 とくに、軽症の場合は――
1、2年前、夜、精神科の病院で当直していたときに―― 睡眠薬を大量に服用したとされる女性が搬送されてきた。
アルコール依存症の患者さんで、数日後に、その病院に入院する予定になっていた。
睡眠薬を大量に服用していたのなら、精神科ではケアできない。 しかるべき救急施設に搬送すべきである。
が、その救急隊は、そうは判断しなかった。 真っ直ぐに、僕が当直していた病院に連れてきた。
こちらは困った。
僕は、救急の患者を受け入れるために当直していたのではない。 そもそも、その病院には、夜間に急患を受け入れるシステムがなかった。 僕は、その病院に入院している患者さんが、精神科以外の疾患を発症したときに、すみやかに初診するために当直していた。
だから、もし、睡眠薬を大量に服用したとされる患者さんの「まさか」に備えるのだとしたら、精神科に搬送するのは筋違いである。
救急隊の隊長は、かなり年配の人だった。 おそらく、ベテランであろう。
では、なぜ、そんな筋違いな搬送を実行したのか。
おそらく、その女性の容態が重篤ではなかったからだ。 自分で話せるし、歩けもした。 少なくとも、その時点では軽症である。
こういうケースには、背後に社会的なトラブルが潜んでいる可能性もある。 救急施設は、そのことを熟知している。 軽症の患者に慎重になるのは、そうしたことによる。
病院は、医学的トラブルには強いが、社会的トラブルには弱い。
結局、その女性は、僕らで引き取ることにした。
引き取る代わりに、救急隊の隊長には厳重に注意をした。 自分よりも若い医師に、自分の部下の面前で注意され、気持の良かったはずはない。
が、僕にも立場がある。 他のスタッフの手前、筋違いな搬送を、簡単に受け入れるわけにはいかなかった。
加えて―― 僕は、その病院の施設長ではない。 悪しき先例を作るわけにもいかなかった。
*
おそらく―― 今日、ホテルの前で倒れていた男性も、同じような扱いを受けるだろう。
社会的なトラブルを抱えている可能性が高い。 路上生活は、広い意味でのトラブルである。
救急隊の病院探しの憂鬱を思った。
*
一つ断っておきたい。
今日の『道草随想』は告発ではない。 告白でもない。
何か明白なメッセージを込めたつもりはない。
強いていうならば―― 人々が生きていくということは、こうしたことの寄り合わせではないか――そう感じたということである。
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2006年2月5日 (日) |
恋愛バトン |
ぽち(仮)さん(『客間』参照)から恋愛バトンを頂いた。
せっかくなので、正直に答えてみようと思う。
*
Q1 好きなタイプを外見で答えよう。髪型、顔、体型、身長、服装、職業、性格その他ご自由に
髪型:後ろ髪を束ねている 顔:小動物系で稚い印象を与える 体型:やや痩せぎみ 身長:高すぎず、低すぎず 服装:フォーマルなスーツなど 職業:女優(外見の質問じゃないの? まあ、そうといえなくもないか) 性格:僕と気が合えばよい(――だから、外見の質問じゃないの?)
Q2 年下が好き? 年上が好き?
年下が好き―― 10年くらい前は年上だった。 その前は同い年――
Q3 タイプの芸能人は?
たくさん、いすぎて挙げられない。 一番、有名なのは松浦亜弥さんかな。ただし、御性格を拝察するに、僕と気が合うとは思えない。
Q4 恋人になったらこれだけはしてほしい、これだけはしてほしくないという条件をあげて下さい
恋人なら、とくに注文はない。 結婚相手なら、ないわけじゃないけれど――
してほしいこと:自分の人生を楽しむ してほしくないこと:僕が人生を楽しめないように仕向ける
Q5 今までの恋愛経験の中でこの人はタイプだったなという人とのエピソードは?(片思いでも付き合っていてもOK)
教え子の中にタイプの女の子が一人いた。7歳ほど年下―― 高3の冬に、下らない説教をして泣かせてしまった。
結局、口説かなかった。 教え子でなかったら口説いていたと思う。二人きりの時間は、いくらでもあったので――
Q6 よくはまってしまうタイプをあげてください
はまるってどういう意味? 夢中になるということ?
最近は、女の子に夢中になったことがない。 20代中盤までは、しばしば夢中になっていた。外見が好みの女の子や高学歴の女の子に――
Q7 あなたを好きになってくれる人はぶっちゃけどんなタイプ?
残念ながら、人から本当に好かれたことはないように思う。 少なくとも、好かれたことを確認したことはない(原理的に確認できない)
Q8 甘える?/尽くす?/嫉妬する?
全部――
嫉妬する > 甘える > 尽くす
の順――
Q9 最後にバトンを渡したい人を5〜10人でお願いします
5〜10人は欲張りすぎでしょう。 持っていきたい方は、どうぞ――
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2006年2月2日 (木) |
嫌な夢をみた(前編) |
今朝―― 妙な夢をみた。
嫌な夢だった。
*
夢の中で―― 僕はチューリッヒの湖岸を歩いていた。 スイスのチューリッヒである。 僕は、4歳から6歳まで、チューリッヒに住んでいた。
湖面には靄が立ち込めていた。 上空は曇天だった。
岸辺は公園になっている。 日本の唄が流れていた。 杉山清貴さんの唄である。僕が18、9の頃に聴いていた唄だった。
こんな唄をスイスで聴くとは思わなかった。 不思議に思い、音源を求めて歩き出す。
いつの間にか―― 僕は列車に乗り込んでいた。
湖岸に駅があったらしい。
実際のチューリッヒ湖の岸辺に駅はない。 あったのは連絡船の停留所である。 が、そのことに僕は気づかない。そういうものだと思っている。
列車が走り始めた。 唄は流れ続けている。
音源を探し、周囲に視線を走らせる。
列車が止まった。 次の停車駅に到着したらしい。 今度も湖岸の駅である。
列車の扉が開くと―― 唄の伴奏が一気に大きくなった。
駅舎脇の広場で、楽団が演奏している。 スイス人たちが杉山清貴さんの唄を演奏しているのである。
奇妙である。 が、奇妙だとは感じない。 (あ、ここで演奏してたのか) と思った。
その駅で女性と知り合う。 日本人の女性である。
少女のような女性――でも、どこかオバさん顔の女性―― 名前はノブコという。
ノブコに行き先を訊かれた。 僕は、 「キルヒベルクまで――」 と答える。
キルヒベルクは、チューリッヒの郊外の住宅地である。 かつて僕らが暮らしていたアパートがある。
行き先を告げると、ノブコは軽く頷いた。 「私の家の近くだ」 と――
列車は出発し、程なくキルヒベルクの駅に到着する。 掘っ建て小屋のような無人駅である。雑木林の中にひっそりと埋もれている。
僕の知っているキルヒベルク駅ではなかった。 実際のキルヒベルク駅は、日当たりの良い場所にあり、大きな駅舎があり、ホームが2、3本走っている。
が、疑念は感じない。 そういうものだと思っている。
駅舎の中には郵便受けがある。 さながら集合住宅の郵便受けのようである。
「あなたのお母さんのポストも、ここにある」 と、ノブコはいった。 どうやら、キルヒベルクの住民たちの郵便受けが、全て駅舎に集められているらしい。
もちろん、実際のキルヒベルク駅に郵便受けはない。 郵便受けが一つの駅舎に収まりきるほど、人口の少ない村落ではない。
が、ノブコにそういわれ、ようやく思い当たる。 僕がスイスにやってきたのは、母を訪ねるためであった。 母は、もう、ずいぶん前からキルヒベルクに住んでいる。
実際の母は岡山に住んでいる。 キルヒベルクではない。
が、疑念は湧かない。 そういうものだと思っている。
(後編へ)
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2006年2月2日 (木) |
嫌な夢をみた(後編) |
(前編より)
母の郵便受けを調べてみると―― 積み重なった書籍の上に、日本語の冊子が置かれていた。 何かの手引書のようだった。 それを取り出し、ノブコに渡す。
「他に何か持って行きたいものは?」 ノブコが問う。
「できるだけたくさん持って行ったほうがいいよ」 とも付け足した。
いわれるままに、僕は郵便受けの残りを調べてみる。
古い辞書が出てきた。 二冊分だ。
一冊は背表紙が剥がれ、そこに黒のマジックで「ライトハウス」と書かれていた。 もう一冊は、バラバラになっていた。原形を止めていない。 多分、研究社の辞書である。小豆色のカバーだ。僕が高校時代に使っていたものと同じだった。
それらを抱え、僕は駅舎を出た。 ノブコが先導した。
「こんな古い辞書で翻訳してたのかよ」 と、僕は笑った。かすれた笑いだった。
母は翻訳家である。 スイスにきて、英語の本を日本語に翻訳している。
実際の母は翻訳家ではない。 薬剤師である。岡山の郊外で薬局を経営している。 翻訳家になろうとしたことはあったらしいが、挫折したようだ。
不意にノブコが振り返った。 僅かに笑った。 寂寥の笑いだった。
僕は、ノブコの顔とボロボロの辞書とを交互にみながら、 (最新のトレンドで訳さないと意味ないのに――) などと思った。
駅舎前には広い車道が横たわっていた。 信号は赤だが、車の姿はない。渡ろうと思えば渡れた。 が、ノブコが信号待ちをしているので、僕も待った。
そのとき―― 僕は、ノブコの寂寥の意味を生々しく悟った。
ノブコは知っている。 なぜ、僕が今日ここに来ることになっていたか――
その瞬間、僕の口から言葉が飛び出た。 「ちゃんと精一杯に生きなきゃダメだよな」 手元のボロボロの辞書をみながら、僕は呟いた。
しっかりと言葉にできただけで、もう十分な気がした。
この時点で、僕は半分くらいは日本に帰るつもりでいた。 そして、もう半分くらいで、このままスイスに永住するつもりでいた。
母が、すでに、この世にないことを悟っていた。 (自死だ) と、僕は思った。
ノブコは天を仰いだ。
キルヒベルクの空は青かった。
*
そこで目が覚めた。
気味が悪くなった。 母の携帯電話に連絡をいれたくなった。
が、早朝だったので、思いとどまった。
訝った。 僕は母と折り合いが悪い。 そんな息子でも、こんな思いになるものか、と――
なるのである。 それが親子というものに違いない。
*
夢判断などを望むつもりはない。 夢は夢である。
が―― ひとつ、実感したことがある。
母との関係は、切れるものではない。 母が死んでも、切れるものではない。
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2006年1月27日 (金) |
萌えについて(前編) |
ここ数年―― 萌(も)えについて考えている。
萌えというのは、「草木が萌ゆる」の「萌え」ではなく、マンガやアニメやゲームにみられる萌えである。
いわゆる、
――萌え萌え〜!
の「萌え」である。
*
萌えの定義は難しくない。
難しいとの向きはある。 が、 (そんなことはないだろう) と、僕は思っている。 すなわち、
――萌えとは、虚構の人格に恋愛感情を抱くこと
である。 それで十分だろうと思っている。
通常、恋愛感情は性愛衝動を含む。 ゆえに、例えば、少年がマンガのヒロインに猥褻な感情を抱くようなことも含めて、萌えという。 少なくとも、そう主張することはできる。
*
「萌え」という言葉を最初に知ったのは、90年代の終盤であった。 コンピューター・グラフィクス(CG)業界を紹介する深夜のTV番組で、あるCGキャラクターに対し、
――萌え萌え〜!
と悶えてみせたタレントさんがいた。 若い女の子だった。
だから、「萌え」を同性愛と勘違いしたくらいである。
ちなみに―― 女性の場合、萌えは同性相手に用いることが多いらしい。 異性相手には、そうでもないようである。
もちろん、例外はある。 例えば、ナヨナヨっとした女性みたいな男や、プリプリっとした幼女みたいな少年には、かなり頻繁に用いるようだ。
話を戻す。
通常、萌えは男が女性に抱く恋愛感情である。 物語の中の女性に抱く。 性愛衝動も含む。
*
なぜ、萌えにこだわるのか?
実は―― 僕にとって、萌えとは、どうしても看過できぬ現象であった。
「萌え」を知る遥か以前から、僕は、萌えに膨大な時間を費やす自分に、気が付いていた。
生まれて初めて小説を書いたのは、8歳か9歳の頃だ。 そのときのテーマは、いま思えば、明らかに、
――萌え
であった。
起源は、もっと古い。 物語を作り始めたのは、4歳か5歳のときである。
その頃から、僕は間違いなく萌えていた。 性愛衝動も含んでいる。
そういう意味で―― 僕は早熟な子供であった。
*
今でも、自由に小説を書くときは、必ずといってよいほど、萌えが前景に立つ。 とくに長編小説では、
――まず、萌えありき。
である。 萌えがなければ、物語が始まらない。 物語のヒロインに萌えることで、初めて物語は動きだす。
が―― その萌えを隠そうとする。 だから、始末に困るのである。
今の僕が抱えている小説の問題が、そこにある。
(後編へ)
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2006年1月27日 (金) |
萌えについて(後編) |
(前編より)
萌えを隠す理由は簡単である。 小説の作者が、小説のヒロインに萌えているような小説は、売り物にはならないらしいからだ。 いわゆる文芸業界の人々が声高に叫ぶことである。
ちなみに、僕は、この説を信じていない。
が、無視はできない。 一理あるとは思っている。
想像してみればよい。 作者が、物語のヒロインに、これ見よがしに萌えていたならば、どうなるだろうか? おそらく、すぐに読者の興がさめるであろう。
もちろん、そんな作者に自分を重ねたいと思う読者なら、話は別である。 が、そんな奇特な読者をあてにするわけにはいかぬ。
もう一つ―― 僕の場合、結果的に萌えの隠蔽に繋がっていると思われる要因が、ある。
人間性である。
僕は、とにかく人間性を溶かし込みたがる。 濃密な人間性である。 長編の歴史小説に描かれるような人間性といってもよい。
式部たかしが『サクラ大戦』のヒロインの一人・真宮寺さくらを起用し、二次創作を行ったとき(『二次創作展覧場』参照)―― 真宮寺さくらを、原典が描く20歳前の女性としてではなく、34歳の大人の女性として描いたのは―― 真宮寺さくらを、歴史上の人物として、捉え直す作業が面白かったからである。
もちろん、根底には真宮寺さくらへの萌えがあった。 その萌えが、真の萌えたるためには、真宮寺さくらという疑似人格に、濃密な人間性を溶かし込んだほうが有利なのである。 少なくとも書き手の立場では、そうであった。
人間性を溶かし込むとは、簡単にいえば、歳をとらせるということだ。
少女は、永遠に少女であり続けるわけではない。 いつかは、女になる。
その女も、永遠に女であり続けるわけではない。 いつかは、死んで土に還る。
歳をとるとは、人間性の兆しの最たるものである。 「人間の時間性」とでも呼ぶほうが、しっくりくる。
*
真宮寺さくらの人間性は、理解されやすい。
『サクラ大戦』はヒットした物語である。 そのヒロインの造形は、すでに世間に広く流布している。
が、式部たかしのオリジナルでは、こうはいかぬ。 手続きを踏まねばならぬ。
まず―― 歳をとらぬ永遠の少女としてのヒロインを描き、その後に、そのヒロインへ濃密な人間性を溶かし込む――そうした手続きを踏まねばならぬ。
僕の小説は、放っておけば、原稿用紙5000枚くらいになってしまう。 その理由が、ここにある。
人間性の溶かし込みという手続きを踏まない限り、僕の物語は完結しない。
500枚に収めることは、可能ではある。 駆け足で描けばよい。 ストーリーに起伏をつけ、奇抜なアイディアを盛り込むなどして、技巧的に描くこともできる。
が、それでは僕が萌えないのである。
作者が萌えないのだから、男性読者も萌えないに決まっている。 女性読者にいたっては、
――なにアホ、やってんだか。
となる。
萌えたがっているのに萌えられない作者ほど、見苦しいものはないだろう。
*
萌えは、極めて個人的な感情である。 それを小説で表すこと自体に、原理的な困難が伴うようだ。
小説もまた、極めて個人的な手法である。
萌えと小説と――ともに個人的なものなので、作者には気付かれぬ馴れ合いが生じやすい。 その馴れ合いに、読者は即、気付く。
僕が長編小説を書くとき―― いつも、この問題が立ちはだかる。
僕が小説を書き進めるのは、萌えを実践したいからである。 が、小説がもつ原理的属性が、僕の萌えを拒むらしい。
打開する鍵はある。 問題は、その鍵を、いつ、どうやって拾うかだ。
だんだん切羽詰まってきた。
そろそろ大勝負をかけるべき時なのかもしれない。
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2006年1月21日 (土) |
自分の欠点を認め、赦す |
――人は、自分の欠点を受け入れるときに、徳を得る。
と、友人がいった。
まなべくんである。 12月14日の『道草日記』で「物欲バトン」を回してくれた。
今日は夕方の4時頃から、夜の10時頃まで、ひたすら、まなべくんと話し込んでいた。
彼は、対話の労を厭わない。 とことん、本音で向き合ってくる。
だから、6時間くらいは話ができる。
仙台でのことである。 まなべくんは、昨日から仙台にいる。 今日の夜行バスで東京近郊に戻る。
――人は、いかに徳を得るか?
との問題定義は興味深い。
多くの人は、自分に徳がないと思っている。 そして、多くの人が、徳を得たいと思っている。
僕も思う。
――自分の欠点を受け入ればよい。
と、まなべくんはいった。 受け入れるとは、真の意味で受け入れるということである。 赦(ゆる)すということである。
例えば、
――僕は、つい正論を吐いてしまう。正論を吐き、人を裁き、傷付けてしまう。
と思っていたとする。
それは欠点である。
その欠点を嫌い、修正に躍起になることは、「赦す」からは遠い。
――たしかに僕には、そういう欠点がある。が、それも含めて自分なんだ。
と思う――それが受け入れるということである。
もちろん、人を傷付けるのはよくない。
が、それを避けようと、欠点を修正するようなことばかりをやっていては、徳は得られない。
欠点を認め、赦し、その上で、人を傷付けない配慮はする――そういうことである。
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2006年1月11日 (水) |
「懲善勧悪」の様式美 |
様式美というものは、様式を守る主体側の美であって、様式自体に美などない――と、僕は思っている。
例えば、物語の様式の一つに、勧善懲悪というものがある。
僕は勧善懲悪が嫌いだが、勧善懲悪の様式美を否定するつもりはない。
勧善懲悪にも様式美は存在する。 勧善懲悪に則って物語を紡ごうとする主体の心意気に美を感じるのである。
いってみれば―― 学術論文を美しく仕上げるようなものである。 全ての条件が過不足なく満たされている――その様子に、美を感じとる。
様式美というものは、その様式が、どれほど多くの人々に受け入れられているかで、価値が変わってくる。
例えば、僕は勧善懲悪ならぬ「懲善勧悪」が好きだ。 物語を紡ぐ度に、勧善懲悪に挑み、反・勧善懲悪の物語ばかり紡いでいるが―― その背景にあるのは、「懲善勧悪」への飽くなき欲求であった。
子供の頃からである。 もう、ほとんど憧憬といってもよい。
――正義の味方を気取っているヤツは、邪悪な魔物にコテンパにやられちまえばいいんだ!
と、幼稚園生の頃から思っていた。
が、「懲善勧悪」の様式を受け入れる人は少ない。 少なくとも、直にお目にかかったことはない。
物語をみて、 (ああ、これを紡いだ人は「懲善勧悪」の人だな) と思うことが時々ある程度である。
だから―― 僕個人は、「懲善勧悪」の様式美が存在すると思ってはいるが、おそらく、世間に受け入れられることはないであろう。
たしかに、世間にとっては、そのほうがよいかもしれぬ。
まあ―― それは、どうでもいい。
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とにかく――
子供の頃、僕が勧善懲悪の物語に触れ、いつも密かに思い描いたことは―― 善が死に絶え、悪が勝ち誇る終幕である。
正義の味方が惨殺され、邪悪な魔物が君臨する物語である。
なぜならば―― 現実の人類は、そんな歴史を繰り返してきたのではなかったか。
――真実から目を背けるな!
――正義の味方なんて、どこにいた?
――茶番に騙されるな!
そんなアホを、声高に叫ぶ―― 生真面目に叫ぶ――
そんな子供で、僕はあった。
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2006年1月8日 (日) |
スカートの中身 |
僕はスカートのミニが好きである。
……などというと、びっくりするに違いない。 15年前の僕が、である。
自分の耳を疑い、
――そんなバカな!
と思うはずである。
今はミニが好きである。
が、高校時代までの僕は、そんなに好きではなかった。 むしろ、嫌いだった。
――ミニより水着のほうがいいに決まってるだろう!
ということである。
――中身がみえそうでみえないなんて、ふざけてる!
ということである。 当時の僕は、肌の露出度しか気にしていなかった。
それが―― 今は好きである。 ミニが好きである。
簡単にいえば―― オヤジになったということだ。
が―― もう少し内実をいえば、
――ミニの中身をみてきたから――
ということであろう。
ミニスカートの良さがわかるのは、スカートの中身を熟知してからだ。
熟知というと、何だか気恥ずかしい。
もちろん、半同棲生活を送ったことがあるという意味での熟知でもある。 アダルト・ビデオやDVDによる熟知といっても、まあいい。
が、肝心なのは、それではない。
ヒトの体の隅々までを知ったからである。
*
学生時代―― 専攻は医学だった。
大学に入ってすぐに解剖学の実習があった。 解剖とは、遺体を解(ほぐ)し、隅々を観察することである。 体の中までも観察する。 ヒトの体がモノであることを実感する。
単に、形だけではない。 仕組みまでも隅々まで知ってしまう。
もっとも、僕は真面目な学生ではなかった。 だから、隅々まで、といえるほどに学んだわけではなかったが―― それでも、多くのことを知っている。 体の仕組みに異常が出ると、その後、どうなっていくかも知っている。
もっと、わかりやすくいえば――
水商売の女性が、乳がんで手術台に横たわっているところをみた。 二十歳すぎの女の子が、末期がんで衰弱しているところをみた。
ミニスカートが輝きだしたのは、その頃からである。
(スカートの中身なんて、みえなくていい) と思うようになった。
中身にはキリがない。 1枚めくって、もう1枚―― さらに奥に、もう1枚――
最後は、命の神秘に触れるだけ――
命の神秘は荘厳だ。 男の欲を萎えさせる。
だから――
下品な男にとっては―― ミニスカート程度が幸せなのである。
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2006年1月6日 (金) |
小説批評の落とし穴 |
ここ1週間で小説を読んだ。 数冊ほどである。
それで思った。 小説批評の落とし穴について、である。
とりわけ、 (つまらない) と思った場合の小説批評である。
*
小説を批評するとき―― 人は、つい、
――こうすると、もっと面白くなるのに……。
と、いってしまう。
大抵は、ひとりよがりで終わっている。 批評した当人が面白いと思っているだけである。 少なくとも、書き手の共感を得ることは稀である。 おそらく―― 創造的であろうとするがゆえの、落とし穴であろう。
人は、しばしば、この落とし穴にはまる。 僕も、そうである。
――僕なら、こうするのに……。
と思う。 いつも思っている。
が、それを口に出すことはない。 口に出すくらいなら、自分の作品に活かすほうがいい。
以前は、口に出していた。 口に出し、煙たがられていた。
今も、口に出すことがある。 気を許すと、つい口に出す。 口に出し、煙たがられている。
では、どうすればよいか?
*
どうつまらないかを、指摘するだけでよい。 それも、厳密な指摘である。
(つまらない) ということは、つまり、
――読むのをやめた。
ということである。 あるいは、
――読むのをやめたくなった。
ということである。
どのように読み進め、どこで読むのをやめたのか――あるいは、やめたくなったのか――を、具体的に、かつ正直に指摘する。
それが、有益な小説批評のあり方だと思っている。
*
小説は、普遍の仮面を被った特異である。
特異の批評は、特異である。 小説批評に普遍は存在しない。
だから、批評者は、いかに読むのをやめたのか――あるいは、やめたくなったのか――を、具体的に、かつ正直に指摘するだけでいい。
小説批評の場合には、それで十分に創造的たり得る。
*
以上は、ネガティブ批評のことである。
が―― ポジティブ批評でも、話は同じである。
面白い小説とは、最後まで読み進められる小説である。 途中で読みたくなくなるようなことがなかった小説である。
いかに面白かったかではなくて―― いかに読み進めたくなったか――あるいは、読むのをやめたくなくなったか――を、具体的に、かつ正直に指摘する。
それだけでいい。
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2006年1月3日 (火) |
司会(前編) |
司会は難しい。 優れた司会進行は人間業とも思えない。
みのもんたさんのことである。 先日のNHK紅白歌合戦で司会を務められた。
*
みのさんは、医療人の商売敵である。 日本テレビ系列のお昼の番組に『午後は○○おもいッきりテレビ』というのがある。
この番組で、しばしば取り上げられるのが健康情報だ。 食物の何ナニは体の何処ドコに良いとか、悪いとか――
大学時代、僕は医学を専攻していた。 内科の講義で、教授が問うたことがある。
――きみら、外来の診察で困ることは何か、知っているか?
学生たちが一様に怪訝な顔をしていると、映写機のスライドが切り替わって、
――みのもんた
の文字が映し出される。 その瞬間、学生たちは教授の意図を察し、大笑いした。
つまり―― 医師が、外来の診察室で、健康維持のノウハウを、どんなに細かに説明しても、
――だって先生、みのさんがTVでこういってた。
となる。
――彼は、たいていの熟練医よりも説得力がある。
と、教授はいった。
みのさんが、医学を系統的に学んでおられるとは思えない。 少なくとも医師が学ぶように学んでおられるとは思えない。
にもかかわらず―― みのさんの言葉には説得力がある。
これが、練達の司会進行の強みである。
*
みのさんの司会は巧い。 神業といってよい。
間のとり方、間のきり方―― 言葉の選び方、言葉の捨て方―― 絶妙の配合である。
僕も司会をやることがある。 学会のシンポジウムや講演会の類いである。
先日の紅白をみていて、多くのことで合点がいった。 みのさんが、その時その時で何を気にしておられるのか、妙によく、みてとれた。 みてとれる度に――
――ああ、そうだったのか。
と、僕は自分の過去の失敗を思い返した。
まるで、みのさんが、全国の司会見習いを念頭に講義をしているかのようである。
もちろん、そんなわけはない。
にもかかわらず―― みのさんの気にしておられるであろうことが、みてとれてしまったのは――
やはり、楽屋のゴタゴタ劇が原因であろう。
*
――10%のできだった。
と、いっておられる。 みのさんの紅白でのパフォーマンスの自己採点である。
辛口の原因は、みのさんの次の言葉に集約される。
――僕は司会をしに来たんだ。台詞を読みにきたんじゃない。
昨日―― 紅白の舞台裏を報じたドキュメンタリー番組が放映された。 その中で、たしか、みのさんがいっておられたことである。
NHKのプロ意識は、どこかズレている。 みのさんに棒読みさせる台詞を洗練させることが、プロの務めだと思っていたのではないか。
僕らのような素人司会者が相手なら、それもいい。 が、相手は「みのもんた」である。 司会者のプロである。
なぜ、プロの経験と直観とを信じなかったのか。
同じプロなら、わかっているはずである。 プロの経験と直観とが、いかに理屈を越えていくか――
ドキュメンタリー番組の中で、みのさんは怒鳴っておられた。
――スタッフが決めすぎなんだよ!
たしかに、そう怒鳴っておられた。
そんなみのさんを、
――猛獣
と称したスタッフがいた。 現場のリーダー格と思しき男性である。
その男性は、多分、みのさんのキャリアやキャラクターに畏敬の念を込めたつもりであろう。
が、語るにおちたとはこのことだ。「猛獣」という言葉に全てが内包されてしまった。 彼にとって、みのさんは旧秩序を壊そうとする厄介者だったに違いない。
そもそも、なぜ、みのさんを起用したのか―― その意図が、スタッフ全員に、正確に、かつ正直に伝わっていなかったように思う。
――僕を使うってことは、ある程度は喋らせろってことでしょ?
件のドキュメンタリー番組の中で、みのさんは、何度もスタッフたちに語りかけていた。
注意すべきは言葉ではない。 言葉の深層で滾っていた苛立ちである。みのさんの苛立ちである。
こういう形で苛立たせていたのでは、よいパフォーマンスが生まれるわけがない。
なぜ、こういうことになったのか。
おそらく―― 議論すべきところで、きちんと議論してこなかったからである。
議論の不足である。
それで思い出したのが、山本五十六のことである。
太平洋戦争で、真珠湾への奇襲作戦を立案させた日本海軍の提督である。 当時、連合艦隊司令長官を務めていた。
(後編へ)
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2006年1月3日 (火) |
司会(後編) |
(前編より)
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山本が上申した作戦――真珠湾への奇襲作戦――は、当初、海軍の上層部(軍令部)に、ことごとくはねつけられたという。 明治以来の国防方針の根本に反する作戦だったからである。
そんなことは山本も承知だったに違いない。
ハワイに駐留のアメリカ艦隊を飛行機で奇襲するなど、国防方針の根本にそったものであるわけがない。 それを承知で、山本は作戦を上申し続けたのである。
その意図を、海軍の上層部が、どれくらい正確に、かつ正直に把握していたのか? もし、正確に、かつ正直に把握していたなら―― あのような形は、とらなかったはずである。
山本は、自らハワイ沖に赴き、現場で指揮することを望んだ。 が、上層部は、それを許さなかった。
そもそも、上層部は、真珠湾への奇襲作戦を本気で行うことは考えていなかったという。
――山本はうるさい。適当にやらせておけ。
といって作戦を認可する。 が、山本が現場で指揮を執ることは許さなかった。 作戦を「適当」に認可したのである。
上層部は、
――山本に任せたら、何をしでかすかわからない。
と思ったに違いない。 上層部は、山本が、真珠湾に奇襲をかけることで、アメリカ国民に厭戦気分を誘おうとしていることは、理解していた。 もし、山本が現場で指揮を執ったなら―― アメリカ国民が確実に戦争を厭うまで、徹底的に戦果を追い求めると感じたのかもしれない。 奇襲の成功後も、さらなる危険を冒し、かえって戦力の過半を失うことに不安を感じたのかもしれない。
が、それなら奇襲作戦自体を、はねつけ通すべきだった。
――適当にやらせておけ。
としてよいはずが、なかった。 山本の指揮権を奪い、国内に止めおくなど、ナンセンスである。
奇襲作戦は、山本らが中心になって立案したものである。 山本が指揮を執るのが最適に決まっている。
もし、上層部が、山本らの奇襲作戦を捨て、明治以来の国防方針を堅持する覚悟が本物であったなら―― 山本以下、連合艦隊の全幕僚を罷免してでも、奇襲作戦をはねつけるべきだった。
それをしなかった。 できなかったのである。
それができるほどに、本音で議論を闘わせなかったからである。
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先日の紅白も―― 似たような状況ではなかったか。
「みのもんた」を起用した者がいる。 その真意をくみとれなかった者がいる。 くみとることなく、
――適当にやらせておけ。
と、考えた者もいる。
本番直前のみのさんに、TVカメラの前で、
――僕を使うってことは……。
などといわせてしまった。
どう考えても議論が足らなかったのである。 みのさんを起用すると決めたNHKのスタッフ同士の議論である。
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今回の紅白は、例年と違い、まずまずの視聴率だったらしい。
が、みのさんは、
――10%のでき
といわれている。
もちろん、「10%」は御自身のパフォーマンスである。 が、スタッフ全体のパフォーマンスも、そんなものだったと感じる。
むしろ、みのさんがガムシャラに我を通し、ようやくの「10%」であった。
一昨年までの紅白では「1%」もやれない。
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議論を尽くしてこそのプロである。
議論ができぬ者―― 自分の地位や職分を、議論の結果に賭せぬ者――
そういう者たちは、プロではない。
60年前―― 日本海軍は戦力の大半を失った。
なけなしの巨大戦艦を、沖縄に特攻させなければならなかったほどに―― 日本海軍の威信は地に堕ちた。
その兆しが、山本の奇襲作戦の不完全履行にあったことは間違いない。 彼らはプロではなかったのである。
同じ轍の上を、21世紀のNHKが進んでいないと、誰が断言できるのか。 抜本的な議論の積み重ねしか、現状を打開する手段はないはずである。
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